Angel
「植村先生の大事なあなたに、肺炎でも起こされては大変ですから、研究所に戻って薬品を持ってきましょう。注射の方が私は楽しいですが、あなたの希望は? ああ、注射の方がいい。そうですか。医者に合わせてくれるとは、いい患者だ」
弦谷は一人で言って満足げに目を細めると、車の助手席から食事の入ったバスケットを出して差し出した。ハンガーストライキは三年前、たったの四日で失敗した。 「では直ちに行ってきます。あなたは中へどうぞ」 言われた通り、姫は檻に戻った。中でも外でも逃げられないのは同じことだ。今更じたばたしても始まらない。 弦谷は檻を閉じて、水分の少なそうな髪を片手で抑えると、姫に向かって不気味にウインクをしてみせた。 「あなたはそうしてる方がお似合いです」 姫はバスケットごとぶつけてやろうかと思ったがしなかった。無駄なのだ。たとえぶつけられたとしても、奴は何とも思うまい。 弦谷が車に乗り込んで去って行く。姫は檻を握りしめて、事故に遭えと祈った。あんな奴の顔なんて、もう二度と見たくない。 どうか檻よ壊れろと念じたけれど、一ミリたりとも動きはしなかった。姫は座り込んで手で顔を覆った。 植村はわざとやってるんだ。わざと毎日、他の研究員じゃなくて弦谷を寄越して、あいつのせいであたしの神経が弱るのを、期待してるのに決まってる。弦谷なんか、気配を感じるのも嫌、生理的に気持ちが悪いって、知っててやってるんだわ。 ため息をついて、手を離す。視界に入る自分の金髪から、彼女は目を逸らした。 植村も嫌いだ、自分をこんな風にして閉じ込めて、絶対に一生許さない。許さないけど。 でももし植村がいなくなったら。あたしはどうすればいい? こんな、人間とは思えない姿に変えられて、その上口をきくこともできないのに。 姫は手のひらで顔から喉をなぞった。 指で触ると、盛り上がった傷痕が判る。この傷痕は醜いあたしの体の中で、何番目におぞましいのだろう。見たことはないので想像するしかない。 口のきけないあたしの言葉を、あの男はいつも的確に理解する。思ったことが聞こえるみたいに、あたしの瞬き一つで理解する。そして言うんだ、言葉じゃなくて目で、尊大に。私が必要だろう、と。 あんたなんか要らないわ。でもあんたがいないと……困る。 不意に、ビシッ、という嫌な音が響いた。姫は驚いて、音のした廃ビルを見上げた。 窓ガラスに、ひびが入っている。 姫は安心したような、ガッカリしたような、自分でも判らないまま笑った。ひびを入れたのは自分だ、そんなこと判ってる。 どうせならちゃんと割れていれば良かったのに。そしたら破片で、首を切って死んでやれる。今度こそ、本当に。植村には止められない。 ──本当に? 夜中に、恐ろしい夢の飛び起きると、いつも植村が側にいた。刃物を持った男や気味の悪い化け物に追いかけられて、泣きながら上げた悲鳴が聞こえたみたいに、いつも、ベッドの脇であたしを見つめていた。高熱に浮かされて夢と現の間を行き来していた時も、若い研究生に暴力を振るわれて痛くて眠れなかった時も、気がつけば側に。 穏やかな闇の瞳。何もかも包み込む、大宇宙の色。 『泣くな、私が側にいるから。私は誰よりもおまえを守るぞ、おまえは私の、……私の物だから』 まるで父親みたいに優しい声で。 手を握って。 ──最初の晩の凌も同じ。 姫はきつく目を閉じて、考えを追い払おうとするように頭を振った。 植村は自分を、自分とこの眠る力を利用したいだけなのだ。凌と同じなんかじゃない。全然違う。凌は特別だ、凌のことだけ考えればいい。 本当に、今、ここにナイフがあったら、あたしは死ねるのだろうか。あたしはもう知ってるのに。あの人のことを。 優しい腕、あの人の温もり。あたしを恐れなかったあの人。 あの人に出会ってしまったのに。 姫は目を開いた。そこには誰もいなかったけれど、凌の姿が、見える気がした。彼を見たかった。 また戻ってきてくれるだろうか、ここへ。そんなこと望んじゃいけない。あの人を巻き込んじゃいけない、あたしは彼を守れない。もう来ないでと伝えなくちゃいけないのは判ってる。 でも会いたい。 あなたの声が聞きたい。もう一度あたしに触れて欲しい。どうかもう一度。 もう一度あたしを呼んで。 ピィ、と細い声に姫は顔を上げた。どこから拾ってきたのか、あの犬が古いサンダルを片方くわえて尻尾を振っている。もしかして自分に履かせるために、探してきてくれたのか。 凌だけじゃないわ、この子もいる。あたしを恐れない。温かい。 おいで。 姫はバスケットの蓋を開いて、犬に手招きをした。犬はポロッとくわえていたサンダルを落として、檻の中へ入ってくる。姫は口に手を当てて小さく咳をした。 ◇ ◇ ◇ 教室移動で廊下を歩いている時、政士は偶然哲明に会った。 例の、ダンスチームを組んでいる他校の仲間と夕方から会うことになった、と言っていたので、姫のところに作業に行くのは中止だ。正直言ってホッとした。彼にももうこれ以上、あの謎の少女とは係わって欲しくない。 凌の奴、もうさぼるなよって散々担任に言われてんのにさ、やべえよあいつ。 江藤が言うと、全然深刻そうに聞こえないから不思議だな。 哲明の言い方を思い出して、歩道を歩いていた政士は少し笑った。信号待ちをしていた車が、彼に向かって遠慮なく排気ガスを吹き掛けて、政士が睨む間もなく、青に変わった途端にすっ飛んで発進する。 我に返って、自分がどこにいるのか考えたら後悔しそう。だからこのまんま、勢いのあるうちに行ってしまおう。後戻りしたら二度と来られなくなる。 住所は知っていたけれど、来てみたのは初めてだ。曲がる角を間違えて、たっぷり十五分は迷ってしまった。道に詳しい凌が一緒だったらこんなことにはならなかっただろうが、後の祭だ。自分の方向音痴は体の一部だと諦めるしかない。 俺が謝らないといけないのか? 俺の方が大人だし? ポケットに入れてきたメモの数字と、すぐ脇の家の住所を確かめて政士は頷く。今度は間違ってない。もう少しだ。 近くに公園でもあるのか、子供の声がする。呼びかける母親の声。授業が終わった後、クラスメートにせがまれて、過去のセンター入試問題集を一緒に解いたりしていたので、もうそろそろ子供は夕食の時間だ。凌は家へ帰っただろうか。それともまだあの子のところにいるのか。喋れないあの子と、一日。家を飛び出して。 家を飛び出して、か。 アスファルトに散らばった、ガラスの破片を跨ぐ。事故でもあったのだろうか。 利口なやり方だとは思わないけれど、バカだとも思わない。俺にはできないことだ。親と喧嘩して家を出るなんて、はっきり自分のやり方を見せつけるようなことは。 ここにいる俺は、親の言うことを聞いて、子供の頃からそれなりの成績を取り続け、期待を裏切らずにそこそこの大学に合格してみせて、……本当にしたいことを言い出せずにいる男、だ。もう十八年も、そんな風に生きてきた。 それが間違ってるとは、思わないけど。 政士は夕焼けの見知らぬ街を見回した。この辺りにある筈なのだが……ああ、あれか。 前方に二階建ての、小さいがきれいなアパートが見える。白い壁にグレーの文字。メモしてきたのと同じ名前だ。とうとう着いてしまった。彼女の家に。 ──自分のことを考えたらどうなんだ? 考えたらまたスイッチを切ってしまうから、来たんだ。考えるのをやめて、ここへ。 子供にはそろそろ夜だが、大人にはまだ早い時間だ。留守かもしれない。留守だといいな、と一瞬思ったけれど、その考えを振り払うように気合を入れて階段を登った。一人暮らしの彼女は、二階の一番東の部屋に住んでいる。 十三段目を両足で越えて、深呼吸。アルファベットで書かれた表札を確かめて、政士はドアチャイムを押した。オーソドックスな音が、玄関の内側で反響しているのが聞こえる。 朝、凌に彼女のことを言われてからずっと、授業も上の空で、会って謝ろうと思っていた。入試の面接の時よりもここで待っている今の方が、百倍緊張している。勢いだけで二つ離れた街まで来たのはいいが、未練たらしく思われるんじゃないか、しつこいと鬱陶しがられるんじゃないか……ああもう、考えるのはやめよう。ここまで来てしまったのだから、仕方ないじゃないか。 ……やっぱり留守か。 もう一度チャイムを鳴らしてみたけれど、反応はなかった。勢い込んでいた分だけガッカリして、少し安心もして、政士は玄関を離れた。書き置きしようかとも思ったが、どう書いたらいいか判らない。どこかの家からカレーライスの匂いが漂ってきた。 腹減ったな。留守なら仕方ない、もう帰ろう。きっと、縁がないんだ。 政士が十三階段を降りて駅の方に足を向けた時、ちょうど階段を登ろうと歩いてきた人と、ぶつかりそうになってしまった。 「あっ、すいません」 「ごめんなさ……政士君?」 「え」 びっくりした政士は一歩後ずさってしまった。 白いロングコートにスーパーのビニールの袋を持って立っているのは、彼が会いに来た張本人だった。 「どうしたの、こんなところで。あたしの家よく判ったね、何か用事? あ、CD取りに来てくれちゃったのかな、そうよね」 一度勢いが落ちてしまった後に、同じテンションに戻すのは難しい。何をしにここへ来たのか忘れてしまう。 「すぐ取ってくるわ、待ってて。じゃなくて……上がってく?」 顔を覗き込むようにして晶子に言われた一言に、やっと政士は目的を思い出した。首を横に振る。 「そう」 手に下げた袋が重そうだ。牛乳のパックと、丸い影はグレープフルーツらしい。 もしも彼女の部屋に上がって、一緒に晩御飯を食べられたら、どんなにいいだろう。 「あ、これ? 急に食べたくなってね、買いに行ったら何かいろいろ特価だったから、他のも買っちゃったの。あたし結構、まめに自炊してるのよ」 でも自分が男であり続けるように、二人の年の差は縮まらない。 「晶、天堂さん、俺、謝りに来たんだ」 カールさせていないので、いつもより幼く見える前髪の下から、化粧気のない目が政士を見上げている。逸らしたくなる彼の目が逃げられないように、しっかり捕まえている。 「昨日は、変なこと言って」 政士は勇気を振り起こして言った。言ったからといって何が変わる訳でもないけれど、これ以上悪くはならない。 「すいませんでした」 これでここへ来た目的は果たした。もう言うことなんてない。 会いたかっただけだ。何か理由を作って、彼女に会いに来たかった。会いたかった。 「じゃ、あの……さよなら」 「政士君、何かあったの?」
by NEW-CHAO
| 2005-02-18 17:16
| 小説-Angel(4)
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