Angel
もしも家族の誰かが様子を見に来たら、ボリュームを上げ間違えたことにしよう、と言い訳に使うつもりでラジオのスイッチを入れたが、それは不要だったらしい。
一人残された部屋の中で、ステレオのリモコンを弄びながら、政士は凌が半開きにして行ったカーテンを直すために立ち上がった。だが窓に鍵を掛けるのはやめておく。ラジオからはどういう偶然か、昨日姫の前で歌ったのと同じ、リアン・ライムスの『Howdo I live』が流れている。 話も聞かずに一方的に怒って出ていった凌に対して、怒る気持ちはなかった。凌は政士にとっては弟みたいなもので、子供の頃から些細なことでよく喧嘩をしては、次の日にはケロリとして一緒にサッカーをしたりしていたし、それに今回は彼の気持ちも判らないではないから。 凌が……羨ましくて仕方がない。 あんな風に思いっきり、好きだと顔に書ける凌が。 政士はまた笑いたくなって困った。誰も見ていないからといって、一人で夜中に大笑いなんかしたらシャレにならない。どうにか笑いを引っ込めて、椅子に座り直し、一口しか飲んでいなかったウーロン茶を口にする。 姫と係わり合いにならない方がいい、と思ったのは本当だ。あの様子は絶対普通じゃない。普通じゃないのは見れば判るが、犯罪絡みだったとしても、誘拐とか虐待とかとは違う感じがするのだ。自分の勝手な思い込みだけれど。ただこのまま深入りしたら、何か自分たちも抜け出せなくなってしまいそうな気 がするのだ。 おまえの恋路を邪魔したい訳じゃないよ、凌。いや……ちょっとは、ちょっとぐらいは無意識にそう思ってるかもしれないけど。 ──あたしはあなたより四つも年上なんだよ、ちゃんと判ってる? 四つも若い男の子となんて、考えたこともないわ。オバサンをからかわないで。 ふられ男だから、どうせ、俺は。 政士は手持ち無沙汰に、ラックに戻した雑誌を拾ってもう一度開いた。今日学校帰りに買ってきたのだ。あらかた読んでしまったが他にすることがない。何かしていないと余計なことを考える。──思い出す。 夕方、姫には会わずに駅へと足を向けた後、ゲームセンターにでも行くという哲明と別れて、別のホームから少し街の中心へ出た。哲明とも友達には違いないが、四六時中一緒にいなければいけない訳ではない。これといって用はなかったが、ここのところ大きな本屋も行ってないし、レコード屋もついでに見て来ようと街をぶらついた。 先週発売された洋楽雑誌とミステリーの新刊を買って、レコード屋で新譜CDを二・三枚試聴して、親戚の叔母にもらった音楽ギフト券を持ってくるのを忘れたことを思い出して、まあすぐに売り切れるものでもないし今度にするかと店を出て、十メートルも行かないところで、だった。 「政士君!」 呼び止められてしまったのは。 政士はゆっくり振り返った。見る前から誰だか判っていたのは、店を出た時、視界の端に彼女の姿が入ったからだ。だから敢えて気づかないふりで行ってしまおうとしたのだ。もちろん相手には関係ないことだけれど。 「あの、あたし……ごめんね、今、急いでる?」 相変わらずの颯爽としたジーパン姿。ファーのついた短いコートがウエスタン風で、ボーイッシュな彼女には良く似合う。 「いいえ」 天堂晶子二十二歳。彼の、家庭教師だ。 「良かった、あたしね、月曜日にお家に伺おうかと思ったの。ほら、あたし政士君にCD借りたままだったから、ね、『ザ・コアーズ』のとあと」 緊張してるのか遠慮してるのか、彼女はいつもより歯切れの悪い話し方をする。本屋の紙袋を持ち直して、政士は晶子の言葉が終わるのを待った。雑踏の中に立ち止まって。 「まさか会うと思わなかったから今は持ってないけど、いつ返しに行けばいい? いつなら政士君、お家にいる?」 「いつでもいいよ。ポストに入れといてくれれば」 一直線の冷たい口調に、晶子の笑顔が固まった。彼女の後ろに二人、彼女と似たタイプの女子大生が彼女を待っているらしい。政士は二人から晶子に視線を戻して、言い直した。 「家まで来てくれなくても、着払いで郵送してくれてもいいから。いつでもいいし」 「政士君」 細い指先に、セーターと同じピンクのマニキュア。 「晶、……天堂さん」 この人やこの人の友達から見たら、俺はどんなに子供に見えるだろう。 学生服の襟に掛からないように刈り上げた襟足に、履き古したスニーカーはスーパーのワゴンセールで買った安物だ。大学で机を並べてる男とは、比べ物にならないだろうな。俺は車どころか携帯電話も、百円ライターも持ってない。 「俺、推薦受かったよ」 「えっ、……それはおめでとう。何かお祝いしな」 「だから」 政士は晶子をまっすぐに見て、後ろの二人には聞こえないように低い声で言った。それが彼の優しさだった。 「……何とも思ってないなら、もうどこかで会っても声掛けないで下さい」 何かを言いかけたまま黙ってしまった彼女に頭を下げて、政士は踵を返した。振り返りたかったけれど我慢して電車に乗って、脇目も振らずに家へ帰ってきたのだ。 玄関の前で、耐えきれずに後ろを振り返った。 誰もいなかった。 ……バカじゃないか、俺は。 政士は缶の半分までウーロン茶を一気に流し込むと、もう一度雑誌を閉じた。表紙では日本で大人気のバンドのボーカルが、やけに冷静に彼を見返している。 今まで、誘われたら断らないけれど自分からは動かないで、凌は女の子には全然執着していなかった。誰のことも嫌いじゃないけれど、好きでもないと。でも檻の中の、あの子だけが違う。あの子のためになら、凌は止められても動くだろう。スイッチが入ったみたいに。 でも俺は。 自分から動くことをやめてしまった。自分で電池を外してしまったから。 バカだな。 政士は缶を置いて笑った。手で顔を覆って、声を殺して大笑いした。胸の震えが、別のことをしている時とよく似ているけれど、それに気がついて政士はますます笑った。 信じられないくらい美しい音楽だった。後ろに聞こえている歌手本人よりも、筆入れをマイク代わりに握りしめて歌う少年の声の方が低く、だからこそ寛く、冷えきったこの体を包み込んでくれる。 まるで楽園の川のせせらぎ。それとも鳥のさえずり? おとぎの国では、雲に乗ってどこへだって飛んでいける。星を取って髪を飾ろう。月のハンモックで幸福な夢を見よう。 暮れていく空に伸ばされたしなやかな指先、風を受けるマフラー、空にぽっかりと浮かぶ雲まで、配置が決められている映画を見ているみたいだった。夢のようだった。シャボン玉の中にいて、ふわふわと宙を漂っているような気がして、どこまでも無限の自由、涙が出そうだった。 この歌を知っている。まだあの男の物になる前、よくラジオから流れていたラブソング。英語の内容を聞き取れるほどの耳も、知識も持っていないけれど。 あなたなしでどうやって生きていけるのか、知りたい。 あたしは歌うこともできないけれど、耳まで取り上げられなくて、良かった。 世界には美しい音楽が溢れてる。風の音も、雨の音も、彼の歌声も、あなたの言葉も。 ……あなたの鼓動も。 ねえ、あたしの声が聞こえる? 寝ているに違いない彼女を起こさないように、角を曲がったところでエンジンを切って、凌は下りたバイクを百メートルばかり引いて歩いて、ビルの表までたどり着いた。 錆びたチェーンが張ってあって、バイクを中には入れられないが、昼間にも誰も来ないのに、こんな真夜中にこの細い道を通る車なんてありはしない。いつ消えてしまってもおかしっくなさそうな、長細い蛍光灯の外灯の光の輪から外れた位置にバイクを置いて、凌はヘルメットを脱いでハンドルに引っかけた。 夜は静かで、昨日から欠け始めた月が、泣いている訳でもないのに、妙に切なくぼやけている。今夜もウサギはせっせと餅をついているのだろうか、正月用に? 星がちかちか瞬いて見えるのは、どうしてだったっけ。 どこか遠くから、消防車のサイレンが風に乗って彼の耳に届いた。マフラーに顎を埋めるようにして、凌はチェーンをまたいで敷地に入る。 泥で汚れた型押しガラスの内側からは、見る者を不安にさせる非常灯の光。赤い。 もしもいなかったらどうしよう。 そんな筈ない、今日の夕方にはいたんだから。あの檻をそのままにしても解体するにしても、そんなに簡単に動かせる訳がない。 でももしも、もしもいなくなってたら。 家を飛び出した後、行く先なんてなかった。いくら足掛け十年の付き合いでも、夜の夜中に哲明の家へ行く訳には行かないし、いつもなら真先に行く政士のところも、今はあいつの顔を見たくない。コンビニと二十四時間営業のファミレスで、しばらくは暖まりつつ時間をつぶしたけれど、……足がこっちを向いてしまった。 彼女は迷惑なのかもしれない。俺のことを好きじゃないかもしれないけど。 顔が見たくて。それだけでいいから。 家のことも学校のことも、今は考えたくない。 凌は空を仰いで、凍った空気を肺一杯に吸い込んだ。爪先に力を込めて、でもなるべく足音は立てないようにアスファルトを蹴って走りだす。ビルの裏側に向かって。 檻はあった。 そしてその中から彼を見返す目も。 姫、と呼びかけかけて、凌は声を飲み込んだ。姫じゃない。真っ黒で満丸な目、雨よけカバーから目と鼻だけを出している、犬だ。 姫の顔は犬と反対側にあった。凌のコートの上からカバーと犬を一緒に被って、自分の片腕を枕にして伏せている。 凌は安心して息をついた。まだここにいてくれたのだ。 規則正しく、彼女の寝息が聞こえている。彼女の足元で丸まっているらしい犬が動いて耳まで外に出たが、吠えようとはしなかった。柴犬だろうか、犬の種類はよく知らないが怒っている様子もないので、凌はしゃがみこんで、そっと檻の中に手を伸ばした。 小さな手を握ろうとしかけて、思い直してポケットから先刻買ったカイロを出す。冷えきった指に握らせて、その上から手で包み込んだ。 どんな夢を見てるんだ、姫。ここから出て自由になる夢か。この冷たい檻を壊して。 俺もだよ。俺も自由になりたい。 もう片方の手で彼女の髪に触ろうとした時、微かに彼女の睫毛が震えた。ゆっくりまぶたが開いて、深紅に見える瞳が彼を見た。 姫、と呼びかけようとしたが声が出なかった。 握っていた手を離そうとしたができなかった。彼女が身を起こして、握られたままの手の中のカイロに気がついて、凌を見返して、──笑った。 手の届くところにある、この世で唯一の宝石。 何故か泣きたくなって、凌は地面に膝を着いて姫の手を引き寄せて、抱きしめた。それだけが彼女の存在を確かめる、たった一つの方法のように思える。触れていなければ消えてしまう、幻の女。ここにいると言って欲しい。どうか、俺の側に。 「遅くなってごめん……」 姫がどんな顔をしたかは見えないけれど。 檻を掴んでいた彼女の手が俺の背中に回ったから、返事は判る。 凌は喉の震えを堪えて、抱いた腕に力を込める。彼女の背中に当てた手のひらに何か固い物が触れて、ひょっとして昼間の医者が付けていったのかも、と彼は手の位置をずらした。病気、という言葉が一瞬だけ頭に浮かんで、すぐに消えた。 姫、俺は。 おまえがどこの誰でも。 ここにいてくれて……嬉しい。本当に。何も言ってくれなくても、いてくれるだけでいいよ。 俺が女相手にこんな風に思える時があるなんて、知らなかった。 (4)ヘ続く
by new-chao
| 2005-02-12 14:52
| 小説-Angel(3)
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