黄金のドア
勝手口に置いてあるサンダルをつっかけて、門扉がガシャンと音を立てるのも気にせず道路に飛び出した。夜気がもわっと暑くて、胸に手をやって、自分が寝巻のままなのを思い出したけれど、もう戻れない。
だから走った。回りも見ないで。 真夜中の道路、あてもなく角を曲がって、飛び出して、アスファルトにサンダルが滑って、──ヘッドライトに、目が、眩ん、で……。 「ああ」 水都は不意に呻いて、右足を庇ってしゃがみ込んだ。思い出した。 撥ねられたのだ。 轢かれたというべきか。 骨の折れる音が脳天まで響いて、ひっくり返って頭を打って、気がついたらあのサバンナを横切る道にいた。どこにも痛みがなくて、だからうっかり忘れていたのだ。 自分が昨夜、事故に遇ったことを。 「やっ、どうしたんですかっ? 水都さん、大丈夫!?」 舞がすかさず近寄って、助け起こそうとしてくれたが、水都は立ち上がれなかった。 「大丈夫だ……触らないで。折れてるみたいだ」 「なっ、なんで!? アクセルに何かされたんですかっ」 「違うよ、ここへ来る前に」 『事故に遇った。前も見ないで、やたらに走るから』 「っ!?」 口をきいたのは鏡の中の水都だった。舞が声にならない悲鳴を上げた。 グレーのタートルネックに黒のジーンズ、黒のアンクルブーツ。薄着なのに、十六歳の娘にしては、自分でも呆れるくらい胸がない。しゃがみ込んでいる自分を見下す、冷静な目。見返している自分もきっと同じ目だ。 「水都さん……!」 近づいてくる。 舞が手を貸してさがらせようとしてくれたが、水都は動けない。鏡の中の舞が、活動的なポニーテールにしている以外は隣にいる舞と同じ舞が、ニヤリと笑った。嘲った。 『気絶した』 『眠った』 『夢を見た』 『だからここへ来た』 破れていないシャツの芳真が、元通りの長身の祥一郎が、棒読みに喋りながら近づいてくる。迫ってくる。 「だから……? だからって何?」 同じ顔をして。自分を軽蔑して。 背中に、何か隠してる? 「だから来たって、どうして来たって言うのよ!?」 水都の腕を掴んだまま、舞が気丈にも訊き返した。ドッペルゲンガーたちは顔を見合わせて、声を合わせた。 『おまえが望んだから』 『人の死と、自分の死を』 『自分の死を』 四人は背中に隠していた手を前へ出した。そこには美しい、鏡と同じ銀の剣が握られていた。 殺意。 死ンデ シマエバ イイ。 《 死 ね 》 「やだああ!!」 頭の中に直接響いてきた声は、紛れもなく自分のものだった。舞は堪えきれずに叫んだ。怖かった。 また一歩迫ってくる。踊るような軽い足取りで、ポニーテールのあたし。疲れても汚れてもいない、元気でやる気だ。 「あんた、あんた何なのよお!?」 『あたしは、あたし。隠れてる、邪な、本心のあんた。いやらしいこと考えてる』 「いっ、いやらしいことって何よ、あたしそんなこと考えてない!」 『考えてる。何にもしないで、他人のせいにしてる。自分のこと可哀相がってる』 「舞、耳を貸すな! こんなの幻だ」 すっ飛ばされた姿勢から起き上がりながら、鋭い声で祥一郎が言った。舞は水都から手を離して、焦って彼を拾った。万一誰かに踏まれたら、彼にはそれだけで致命傷だ。 『偉そうに。何にもできないくせに』 大きい祥一郎が冷たい声で言った。舞の手の上で、本物の祥一郎が身を固くした。 『でもおまえもそれを知ってる。何でもできる自分は偽物だって知ってる。知ってるくせに気がつかないふりをしてる、臆病者』 『ロクデナシ』 背後で空を斬る音がした。間一髪で剣をかわして、芳真が滑る床を一回転する。白い胸に浮かぶ傷痕、夕焼け色に燃えて。 「芳真君!」 彼の白いシャツに広がっていくのも、夕焼けかと思ったが、違う。肩の傷だ。コンドルにやられた怪我が、開いてしまったのだ。 「やだっ、やめてよ!! どうしてこんなこと」 『死にたいでしょ?』 嬉しそうな声で舞が言った。だが顔はまるで笑っていない。 舞はゾッとした。自分がこんな残酷な顔をするなんて。 こんなのあたしじゃない。 『こんなのあたしじゃない。家でも学校でも独りぼっち、誰とも喋ったり笑ったりしてない。いつも下を向いて、いつもあたしだけ、いつも耳を塞いでる。あたしはどこにいるの』 あたしはどこにいるの。 どっちを向いてもこっちを見てるあたし、ここで座り込んでるあたし、剣を構えて覚悟決めてるあたし、どっちが本物なの。投げやりで諦めて生きてるのと、真剣に立ち上がって自分を殺そうとしてるのと、どっちがいいの。 「あたしは……どこに」 《ここに》 尖った切っ先が夜空を流れる星のように、ためらいなく舞の心臓を刺し示そうとした。舞の手のひらで祥一郎が腕を広げた。 「やめろ!!」 すかさず大きい祥一郎が、小さい祥一郎を平手で弾き飛ばそうとする。咄嗟に舞は後ろに飛びすさった。大祥一郎の平手二発目が舞の頭をヒットして、舞は水都の側まで吹っ飛んだ。 「やめろ、秀一郎! おまえの相手は俺だ、おまえが憎んでるのは弟の俺だろう!!」 『俺は憎んでない』 贋物の舞が剣を払って、舞は床を尻餅をついたままの尻で後ずさった。祥一郎が彼女の指の隙間から飛び下りて、贋祥一郎と対峙する。 「しょっ、祥一郎さん!」 『俺が憎んでるのはおまえ。秀一郎はおまえじゃない』 「祥一郎さん、戻ってよお!」 ヒュンッ、と耳元を掠めて剣が振り下ろされ、誰かが舞の腕を引いてそれをかわした。ずでっ、と舞は転び、肩を思いっきり打ってしまう。 「痛っ」 「人の心配してる場合じゃねーぞ」 「芳真君、血がっ」 「気にすんな」 芳真はシャツを脱いで体の血を拭くと、丸めて贋芳真に向かって放り投げた。 『俺は殺したい。おまえ』 相手は瞬きもせず一刀両断にした。ばっさりと。 あっさりと。 『死にたいだろう?』 「祥……!!」 贋祥一郎が足を振り上げて祥一郎を踏んだ。芳真が息を飲んだ。水都が剣をかいくぐって顔を上げる。 「祥一郎さん!!」 怖い。 どうして。どうしてこんなことに。 「……大丈夫」 くぐもった声で祥一郎が答えた。ここからは見えなかったが、ギリギリで避けられたらしい。 ホッとしたら、目の前がぶわと涙で滲んだ。 「良かっ……」 舞は膝で這って行って、祥一郎を拾い上げた。彼は降ろせとわめいたけれど、無視して胸のポケットに入れてしまう。この小さくて大切な人を、絶対に失いたくない。 「水都!!」 冴えきった無表情で、鏡の水都が剣を振り降ろす。水都はその場を動けない。 芳真が彼女を引き寄せるより早く、水都の白い手が、無造作に白刃を受け止めた。袖を染め変えてゆく血の流れを、舞は息を呑んで見つめるしかできなかった。 「もう……もうっ、やめてよ……っ!!」 どうすればいいの。 どこへ逃げればいいの。 この身を流れる美しく赤い血、この身の内を震わせる太古のリズム。ここに確かにあるもの、この温もりをどうして、どうして奪おうとするのか。どうして──捨てたいなんて。 この鏡の間は閉ざされた迷路、どこにも隠れられる場所はない。迫ってくる自分から、逃れる方法なんてないの。 芳真が贋水都の足を払って体勢を崩させる。その一瞬の隙に、もう一人の芳真が本物にのしかかった。剣を振り上げる。胸に残る横一文字の傷が、今も燃えているように見える。 舞は夢中で体当たりを食らわせた。贋芳真と一緒に転がったところを攻めてくる自分に、スニーカーの片方を脱いでぶつけてやる。 「来ないで!!」 舞の左目から、一筋、涙が滑り落ちた。贋舞が一瞬、動きを止める。 頭の右半分がジンジンする。そういえば先刻、大きい祥一郎さんにぶたれたんだった。生まれて初めて、男の人に殴られちゃった。 舞は水都の背中に自分の背中を合わせた。 「水都さん、大丈夫ですか!?」 「ああ」 水都は自分自身を突き放すように、剣から手を離した。血が宙に飛び散った。 「まだ平……」 平気だ、と言おうとした水都の声が途切れて、振り向いて舞は見た。その血が、鴉に姿を変えるのを。血の色の瞳を。 そして。 鴉が天井付近を旋回した。何かを呼び出すように。 何を。 「──!!」 ドラゴンを。 夕焼けの彼方からドラゴンが来る。恐ろしい眼光、コウモリの翼を広げて、鋭い鉤爪を尖らせて。この地獄から、さらなる地獄への水先案内人が。 吠えた。 部屋を覆っていた鏡が、床を残して一斉に割れた。破片が降り注いで、舞は鋭い悲鳴を上げた。身体中に細かい痛み。芳真は頭を庇って伏せる。舞が伏せた拍子にポケットから祥一郎が転がり出たが、舞は気づかなかった。舞の上に、悲鳴を押さえ込むように、守るように何かが被さった。 「アクセル!!」 水都が鋭く呼ぶ。 割れた鏡の先にいたのは、舞たちをこんな目に会わせた張本人だ。崩れた壁の向こうで、驚いて立ち尽くしている。正面にドラゴン。 鏡の中から現れるのは、もう一人の自分。 ドラゴンの相手は舞たちではなかったのだ。 「やっ……」 舞は顔を上げて、自分を破片から庇ってくれている誰かの肩ごしに見た。 「アクセル……!!」 水都が、初めて聞く切羽詰まった声で、もう一度アクセルを呼ぶ。 鴉が止めようとするかのように彼女の袖を引いたが、水都は止まらなかった。 先刻自分を斬った剣を鏡の自分からもぎ取ると、片方の足でドラゴンを追う。固まっているアクセルにドラゴンが爪を振り下ろし、水都が剣を振り上げた。爪がアクセルの胸を裂くのと、水都の剣が背を貫くのは同時だった。 絶叫。 水都が剣を引き抜いたところから、閃光が溢れた。フラッシュに目を焼かれ、細めた、舞の視界に、ドラゴンが尻尾を震わせて身を捩るのが見える。 「水都さ……!!」 尻尾で引っぱたかれそうになった水都の前に身を投げ出したのは、同じく凛とした瞳の鏡像だった。華奢な体が瓦礫に叩きつけられ、動かなくなる。息を飲んで舞は……やっと今まで自分を庇ってくれていた、誰かを見た。 そこにあったのは。 「……どうして……」 自分の顔だった。 血に塗れて、少しだけ笑っている。これが七番目の顔か。 あたしの、死に顔。 「嫌だ。どうして」 舞が泣くのがおかしいのか、舞はますます笑って、ずるずると床に崩れる。舞は焦って抱き起こした。 『あたしは、あたし。あたしはここにいる』 あたしは。 ここにいる。 「やだ」 芳真を守ったのも、祥一郎を手のひらで包み込んだのも、それぞれもう一人の自分だった。 そうだ。判りきってることなのに。 自分を守れるのは、自分だけだった。 「……逝かないで」 舞は笑って、舞の頬に触れた。柔らかい指先が涙を拭う。自分がこんな、慈しむような笑い方ができることも、今この瞬間まで知らなかった。 『サヨナラ』 「!」 消えた。もう一人の自分たちとドラゴンは、跡形もなく。 「舞……」 慰めるように、祥一郎が彼女の膝に手を置いた。一羽だけ残った鴉が肩に止まって、顔を覗き込む。 「えへ」 ごまかすように瞬きしたら、ポタンと涙が落ちて、鴉のくちばしを伝い、祥一郎にかかった。 と。 「しょ……っ!!」 「おっ、おわっ」 みるみるうちに巨大化する。祥一郎が小人から、元の大男に。 驚いた鴉が飛び上がり、舞も身をのけ反らせつつ目を見開いた。コロンと転がり落ちた雫に、芳真の金髪が反射する。祥一郎の変身に呆然としていた芳真が、何を見たのか、ハッとして指さした。輝く瓦礫の向こう、塔の外を。 まっすぐ伸びる光の道。 そしてその先の、黄金の扉を。
by new-chao
| 2005-08-10 19:15
| 小説-黄金のドア(完)
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