うちへ、帰ろう
……亨が目をかけてやっている、自分の家によりつかない少年少女のよく集まる場所にも、いつか本人が客を待つと言っていた繁華街にも、夏希の姿はなかった。
彼は夏希の友人を知らないので、彼が寝泊まりしていた家はどこか判らない。時々見かけた顔見知りに、夏希のことを尋ねてみたけれど、今日は会っていないと言う。 夏希が歌っていた公園に来てみたが、やはり少年の姿はなかった。車の運転席に戻って溜め息をついた。苛々とハンドルを叩く。 これ以上知っている場所はない。彼の兄の家も聞いていないし、他に家族なんて……。 あ。 はっ、と亨は思いつきに身を緊張させた。ある。まだ一か所、判っているところが。ただ夏希が、そこに行くとは思えないけれど。 一度だけ見た、工藤史子の住所を頭の中で繰り返してみる。覚えている。ルームランプをつけてサイドポケットからロードマップを出して開いて、道順をたどって見た。大丈夫、行ったことはないが行けるだろう。 無駄足は百も承知だ、このまま家へ戻るよりずっといい。 亨はルームライトを消してウインカーを出すと、国道に向かって車をスタートさせた。 「……別に、会いたくて来たんじゃないからな」 居心地の悪い、雑然とした部屋でドアと同じくらい薄っぺらい座布団に座って、夏希は挨拶よりも先にそう言った。狭すぎる部屋の中に細々とした物が溢れて、よりいっそう、狭い。 「そう……それなら」 史子はドアを叩いたのが夏希だと判った時、そのまま昇天するのではと夏希が思ったほど青ざめたが、今はもう落ちついて、彼の向かいに膝をついていた。 「何しに来たの、こんな所にまで」 湯飲みも歯ブラシも何もかもが二つづつ、部屋の奥にはトランクスも干してある。夏希はそれらから目を逸らして、彼の知っている顔よりもずっと老けた母を見返した。 「……どうしてここが判ったの」 大きな目と太い眉は、母親似なのがはっきり判る。 同じ形をしている。 「知り合いに刑事がいるんだよ、俺」 いい加減にくくった髪の柔らかさも、母譲りだ。 「おまえこそ訊かねーのかよ、親父や兄貴のこと」 「どうしてるの」 「兄貴は一昨年結婚して、一児のパパだよ。親父は」 史子は玄関を気にしている。安い雨戸に雨の当たる音がひどく、大声を出さないと聞こえない。 「親父は六年前に死んだ!」 言い切ると一瞬、史子の顔が辛そうに歪んだけれど、すぐ元に戻った。昔のことなど聞きたくないとでも言いたげに。 その表情に──夏希は頭に血が昇った。 「どうしてっ!」 二人の間にあったちゃぶ台を叩くと、思ったより大きな音がして史子は肩を震わせた。 「乱暴はやめて!」 「まだ何にもしてねーだろうっ。俺はただ訊きに来ただけだ、あの日のことを! 親父はてめえが出てってから、二度とてめえのことを口に出さなかった。心配してるようなことも言わなかったけど、責めるようなことも言わなかった」 史子は気持ち胸元を庇って、壁際に後退った。顔は少女めいているが夏希はれっきとした十八歳の男だ、力では敵わない。夏希が乱暴なことをしないかを、どこか上の空で気にしている、白々しい顔が、他人を馬鹿にしたようなその顔が特に自分に似ているのが判って、余計に苛々する。 「言ってみろよ、八年前出てった理由を! 今一緒に暮らしてる奴が理由かっ?」 「違うわ、この人は関係ない」 「なら親父か? 親父が俺たちの知らないところで女でも作ってたのかよ」 「違うわよ、お父さんは──圭介さんはそんな人じゃないわ」 「それなら」 夏希はちゃぶ台を踏み越えて母の肩を掴んだ。無理に顔を自分に向けさせる。 「それならなんで、どうして俺たちを捨て た!?」 爆音のように雷鳴が轟いた。耳を覆いたくなる竜の咆哮。史子が何か言おうと息を吸い込んだ時、ずっと彼女が気にしていた玄関のドアが開いた。 そこにいたのは。 「……おまえ」 大柄なシルエット、稲妻に激怒した表情を浮かび上がらせて。 夏希は初めて見る、おそらく史子の同棲相手の男は夏希の姿を見て、決めつけるように怒鳴った。 「やっぱり若い男がいたんだな、それも俺のいない間に連れ込んで! 先刻俺と言い争ったのは、この男をここへ入れるためだったんだな!!」 「そっ、それは違うわ、あなた!」 「言い訳できる状況か、これがっ!!」 「聞いて! 誤解なのよ、あなた待っ」 史子の言葉には耳を貸さず、雷のような音を立てて男がドアを閉め、去っていく。 「待って!」 史子は追いすがったが恋人は戻らず、史子はドアを開けたまま、涙目で部屋にいた夏希を睨んだ。入ってくる雨粒も気にせずに。 「……そんなに知りたいなら、教えてあげるわよ。あたしがどんな気持ちで桃野のうちを出たか、あんたには判りゃしないわ、夏希」 胸を大きく喘がせて、史子は十八年間黙っていた事実を吐き出した。 「──あんたは圭介さんの子じゃない」 閃光。 「あたしが家を出たのは、夏希、あんたのせいよ。あんた自分の顔見たことあるでしょ? どこがお父さんに似てるの? ……十九年前、圭介さんが出張に行って家にいなかったあの日、あたしはパートの仕事先から帰る途中、男に襲われたわ。全然知らない、どこの奴か見たこともない大学生ぐらいの男だった。そいつは大学に三浪中でノイローゼ気味で、自分のしたことが何か判ってなかったわ。ただ欲望のままに、平凡で幸せだった主婦を犯した狂犬、それがあんたの本当の父親よ」 夏希は立ち上がって史子に近づいた。何をしたいのかは自分でも判らなかった。 「冬貴を難産で生んだ時、お医者様に言われたわ。あたしの体は堕胎には耐えられないから、家族計画はしっかりなさい、って。あたしは幸せだった。優しい圭介さんと可愛い冬貴がいれば他には何にもいらなかった。でもあんたが、できたらおろせない悪魔の子が、あたしのお腹に宿った」 史子の頬を伝うのは涙か、雨か。自分の頬を流れるのも。 「判った時、死のうと思ったわ。でもどうしてあたしが、あんたなんかと死ななきゃいけないのよ? あたしは被害者じゃないの! あんたは悪魔の子よ、おろせないから生んだだけよ。圭介さんは決して責めなかった、あたしを恨まなかった。だから我慢できなかったわ、あんたが日ごとに圭介さんと違う顔に成長していくのを見るのが、あたしには耐えられなかったのよ!!」 夏希は腕を伸ばして、母の細い肩に手を置いた。声が出なかった。 ……光の竜が、大切な何かを連れていく。 無言のまま夏希はふらりと母の家を出た。タクシーの運転手がくれた、傘も持たずに。 ごめん。 そんな素振り、全然見せなかったな、親父。兄貴も俺も、大切な息子だって、何でも同じようにしてくれた。冬に生まれた宝物みたいな冬貴と、夏、実際は九月だったけど、希望と一緒に生まれた夏希、ってお父さんがつけたんだぞ。そう言って、俺の手を引いて一緒に歩いてくれた。自分の……本当の息子じゃないって知ってて。 親父。俺、親父の死に目に会えなかった。子供の見るものじゃない、なんて言われて、会わせてもらえなかった。 親父、親父が死んだあの日、今夜みたいな雷雨のあの日、──俺が死ねば、良かった。 ごめん。 ◇ ◇ ◇ これ、か? 亨がメゾン・サンライズの前に車を停めたのは、夏希がここを去ってからおよそ三十分後の八時十分すぎだった。元々方向感覚は発達している方なので道にはほとんど迷わず、途中で一度人に尋ねたので辿り着くのは簡単だった。 まだそんな遅い時間ではないのに、すれ違う車はない。左側に寄せて非常点滅灯をつけて、亨は車を降りた。 冷たい雨風が長い髪を巻き上げる。傘を開いて道路側から三つ目のドアの前まで来て、扉が細く開いていることに気がついた。ノックしようと上げかけた手を下ろして、そっとノブを引いてみる。 「あの、こんばんは」 低く声を掛けると、三和土にしゃがみこんでいた史子が泣きはらした目を上げた。 「あの、突然ですがこちらに、あなたの息子さんがいらっしゃいませんでしたか」 「……あなたは?」 「俺は夏希君の……知り合いで、外村と言います。刑事をしています。今日俺は夏希君を傷つけてしまって」 亨がそう言うと、史子は顔を手で覆って震える息を吸い込んだ。 「傷つけたのはあたしの方よ、生まれてきたのはあの子のせいじゃないのに……」 「えっ、お母さん?」 「あたし、どうかしてたのよ」 史子は手を離してすがるように亨を見た。夏希と同じ形の目が、先刻の夏希と同じように炎の色に濡れている。 「あの人と喧嘩してあの人が出ていって、またあたしは一人になるような気がしたの。それもこれもみんなあの男のせいみたいに思ったわ。そしたら狙いすましたようにあの子が、忘れたい過去そのもののあの子が来たのよ、八年も経ってるのに! ……あの子さえいなかったらって思ったこともあるわ、毎日辛かったわ」 何のことを言っているのか亨には判らないけれど、亨は頷いた。史子は錯乱しかけている。ここで放り出すことはできない。 「だからあたし、あの子に酷いこと言った。あんたのせいだって言ったわ。でも本当は違うのよ、夏希はあたしの子よ! あの子を……あの子を愛してる、本当はずっと会いたかったわ」 雷が長く轟いた。胸を騒がせる不穏な音だ。 亨は雨に濡れたコンクリートに膝をついて、史子の肩を掴んで顔を覗き込んだ。 「お母さん、それで夏希は?」 「判らない、ずいぶん前にふらっと出ていって……」 この冷たい雨と、恐ろしい雷の中を。一人で。 「探します。見つけますから、お母さん、しっかりしてください」 「夏希、……許して……」 泣き崩れた史子を残して、亨はドアを閉めた。天も、狂ったように泣いている。 5. My heart lulled song 怖い。 ──寒い。 どこかへ行くほどの金はもうない。せめて屋根のある所へ行こうという気も起こらずさまよって、辿り着いたのは小さな小さな公園だった。公園といってもベンチと丸く区切った砂場しかない、本当に狭い空き地だ。誰もいない。外灯の光も届かない。 俺は狂犬の子。 闇の中で耳をふさいで、ベンチに座った夏希は目を閉じている。顔に当たる雨は凶器のようだ。ブルゾンもジーンズも水を吸って、体の心まで水に浸かっている。 役に立たないから捨てられたなら、良かった。他に男ができて出ていったなんて平和なこと、どうして想像していたのだろう。 耳の奥から、母の絶叫が離れない。 あんたは悪魔の子よ。 それが何だって言うんだよ。そんなこと俺には関係ない。俺が生まれたのは俺のせいじゃない。俺はおまえの言うことに傷ついたりしない、おまえに捨てられて淋しがったりなんかもしない。おまえの不幸は俺には関係ない。俺は今までも一人でこれからも一人で、俺は何も変わらない。全然、何にも変わったりなんか……。 「ごめん……!」 手を耳から離して膝を掴んだ。思わず出た声はかすれて、雨粒に打ち砕かれた。目を開けても何も見えなくて、誰に謝ればいいのか、何を謝ればいいのか判らなくて歯を食いしばった。 夏希の体まで裂こうとするかのように、天を稲妻が激しく駆け抜ける。恐ろしい竜の唸り声。これは罰なのか。断罪ならば俺を粉々にしてくれ。誰か俺を赦して。 ……でも、誰も、いない。 寒さで爪先が痛い。泣きすぎて目も痛い。胸が痛い。心臓が、心が痛い。もしも今ここでこのまま死んだら、俺は赦されるのか。死んだ親父も生きながら苦しんでるお袋も、もう二度と俺の顔を見ることはなくなる。親父に少しも似ていない、俺の顔。消してしまえば救われるのか。 はっ、と夏希は周りを見回した。雷雨の音に混ざって人の声が聞こえたような気がしたのだ。 ……亨? 思いついて首を振る。あいつがこんな所にいる訳がない。 長身で長髪でちょっとハンサムな、二週間だけの同居人。飯代も家賃も払わずに暮らしたけれど、何も言わずに雷から守ってくれた。 もしも死んだら、もう二度と会えないな。 「……き!」 男の声が耳を打って、夏希は立ち上がった。誰かの名前を呼んでいる。騒音に負けない大声で。 「夏希……!!」 夏希、と。彼の名を。 夏希は闇の中で目を凝らして叫び返した。 「亨!?」 夏希の小柄な体は雨に打たれていっそう小さく見えた。手にもう一本持っていることを忘れて、亨は自分のさして来た傘をさし出した。 「夏希」 夏希が史子に何を言われたのか亨は知らない。慰める言葉は持たない。ただ何となく、あまり遠くには行っていないだろう、という予感に動かされて走り回った。 「夏希、俺はね」 何を言うべきかは判らない。だが夏希よりも先に何かを言わなければいけないような気がして。 こんな小さな、今にも消えてしまいそうな夏希を、見ていたくない。 「俺はおまえのこと好きだよ」 彼自身も意外なほど自然に、するりと口を衝いて出た言葉に、夏希の目が大きくなった。 「恭子じゃないのも判ってる。でも、本当の弟みたいに思ってる」 亨は冷えきった小さな肩に手を伸ばした。 「大好きだよ」 「何言ってんだよ!?」 夏希は亨の手を振り払って、衿に掴みかかった。 「何言ってんだよ、亨、俺のことなんか何にも知らないくせに」 「知らなくても、知らないなら知っていけばいいじゃないか」 「おまえはっ!」 弱い拳が亨の胸を叩く。夏希が頭を振るたびに雫が亨の頬にまで飛んだ。 「おまえは知らないんだ、俺のこの顔の意味を! 俺がこんな顔さえしてなかったら、俺は、誰もことも……」 「違うだろう」 亨は空いている方の手で、夏希の凍った拳を握った。柔らかく、決して解けないように。 「違うよ夏希、その顔は、俺と出会うためだよ。いつかきっと……俺はもう一度、この顔に会いたかった……!!」 夏希の大きな目が亨を見上げた。美しい涙が頬を伝った。 「俺が、おまえの家族になる。もう雷も怖くない」 震えている唇。目が一瞬だけ笑いの形に歪んで。 「……バカ野郎……」 ぶつかってきた体を受け止めて、濡れるのも構わず亨は夏希を抱きしめた。大丈夫だと髪を撫でて、これ以上少しでも雨に当たらないように腕に力を込めて抱きしめた。 「ごめん……」 腕の中で夏希の呟く言葉が誰に向けてのものか、亨には判らないけれど。夏希の涙が治まるまで、彼はじっと無言で夏希を抱いていた。 遠くでまた、雷が鳴った。 翌日の日曜日、二人は風邪で寝込むことになるのだがそれは明日のことで、彼らはちょっと熱っぽいかなと思いつつも布団を並べて、特に何もせず横になっている。車のシートをびしょびしょにして帰ってきた、亨の家だ。亨と、夏希の家だ。 夏希は、自分が風呂に入ってい間に、亨が史子に電話を掛けたことを知らない。ちゃんと見つけ出したこと、一緒に暮らすことを報告して、良かったら是非遊びに来てください、と言ったことを。ありがとうございます、よろしくお願いします、と母が泣いていたことも。 ──外村さん、あの子は……夏希は、一人じゃないんですね……。 夏希は布団の中でふと目を開いた。小降りになった雨と、時折思い出したように届く雷鳴に耳を澄ます。亨、と小さく呼びかけてみたが返事はなく、疲れて熟睡しているようだった。 夏希は顔を右側に向けて、隣で眠る亨を見た。掛け布団から覗く、高い鼻のライン。左腕が無造作に布団の上に出されている。しっかり眠っていることを確認して、夏希は右手を伸ばした。大きな手にそっと手のひらを重ねてみる、と。 眠っている筈なのに、亨の手に力がこもった。絶対寝ているのに、強く握ってくれた。長い指、温かい手のひら、……俺は一人じゃない。 恭子の夢でも見てるんじゃねーだろうな。 夏希は心の中で悪態をついて、少し笑って、目を閉じた。つないだ右手はそのままに、なんだかすごく安心しながら。 痛えよ、この馬鹿力。 彼の枕元には亨の買ってきた土産のCDが置いてある。明日二人で一緒に聴くつもりなので、パッケージはまだ破られていない。 『サウンドトラック・天空の城ラピュタ』、それがこのCDのタイトルだ。
by new-chao
| 2005-03-21 18:38
| 小説-うちへ、帰ろう(完)
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