Angel

     -1.  天使の約束  

 校舎の屋上には、生徒は上がってはいけないことになっている。
 だから他には誰もいないその場所で、錆びたフェンスにもたれて、凌(りょう)は一人で悠々と、コンビニのサンドイッチを食べながら、晴れ渡った空を見上げている。
 昼休み。
 どこかの教室から、五時間目にあるのだろう、英単語の問題を出し合う女子生徒の声が聞こえてくる。グラウンドを見下ろしても、人の姿はない。進学校に通う高校生には、昼休みといっても遊んでいる暇はないのだ。
 遠くに目をやると、最近できたパチンコ屋の大きなビル、その側には街を南北に走る線路が見える。凌が生まれ育ったこの津栗花(つくりばな)は、小さな、何の変哲もない街だ。
 一生、ここにいるつもりはないけれど。
 風が凌の長い前髪を乱して、彼は目を閉じて毛先が入るのを避けた。高い鼻に影が落ちる。濃い睫毛。
 どうして、もっと子供の頃にジャニーズに入れなかったの?
 親戚の叔母の口癖だ。彼の母に会うたびに言っている。凌は男らしい、野性味の強い美少年だ。ちょっと生意気そうで、やんちゃそうで、そこが可愛いといえば言えなくもない。
 だから凌は、自分の顔が嫌いだ。
 俺の顔はアクセサリーか。
 そんなこと口に出して言えば、逆に自慢していると取られかねないので黙っているが。
 風が止んで、凌は右手で髪を払った。中指に、銀のゴツいリング。校則違反なのは判っているが、知ったことではない。
 この冬を越えると、いよいよ来年は受験生だ。
 凌はサンドイッチの最後の一口を飲み込むと、ガシャン、とフェンスを掴んだ。
 この果てしなく広がる空の下、小さな街の中で。
 俺はどこにいるんだろう。
 俺はどこへ行くんだ。
 ──予鈴が鳴った。
 次は担任が担当する日本史だ。さぼるとうるさいし、さすがに吹きっさらしの屋上はずっといるには向かない。寒い。
 行くか。
 凌はコンクリの床に置いておいた缶コーヒーを飲み干すと、ゆっくりしたフォームで校舎の裏へ向かって空き缶を投げ捨てた。

    ◇    ◇    ◇

 あの真っ白なお人形が欲しいの。
 そう、じき小学校に上がる娘が言った。一人娘。年のわりにおとなしくて、物判りのいい、目に入れても痛くないほど可愛い娘だった。
 あまり物を欲しがることのなかった、我が子のおねだりに、彼は入学祝いにとこっそり人形を買い、クローゼットに隠して、プレゼントする日を待った。
 だが春が来る前に、娘はあっけなく交通事故で死んだ。その日から彼と妻の仲はギクシャクし、八カ月後に離婚した。彼の元には一人で住むには巨大すぎる家と、彼が一生分の情熱を注ぎ込める研究と、翼を持つ白い人形が残った。
 あれから、十七年。
 ──もうすぐ本物の『天使』が手に入るよ。
 彼は笑顔で見つめ返す娘の写真に、今日も話しかける。それこそ天使のような、あどけない、幼い少女の瞳に。胸の内で。
 出勤前の、耳には聞こえない娘との会話が、彼の日課だった。一人になって以来、毎日、その約束を繰り返している。忘れないために、それとも、呪文?
 もうすぐ、天使が私の物になる。
 私は、天使を手に入れる。
 白い翼、金の髪、おまえが死んだのと同じ日に生まれた……私の、天使を。
 写真の中の娘の顔が、いつもより嬉しそうなものになったような気がして、彼も満足そうに笑った。

      0.  太陽が見たい

 体を動かせることに気がついたのは、あの手術から三日目の朝だった。正確な時間までは知る術もないが、壁の向こうから微かにスズメの鳴く声が聞こえる。
 耳鳴りと聞き違えない程度には、頭も働いている。どうやら完全に、麻酔の効果が切れたらしい。
 昨日までは、ベッドに固定されてでもいるかのように、ピクリとも動かせなかった腕に力を込めて、彼女は上半身を起こした。背中一面が痺れて、引きつれているような痛み。どうしてかは判っている。彼女は三日間寝たきりではあったが、目を覚まさなかった訳ではない。
 就寝中用のほの明るいオレンジ色の光の中で、彼女はここへ連れて来られてから何百回目かの涙を堪えた。分厚い壁と電子ロック付きの扉の向こうの廊下から、微かに足音が近づいて来る。あの男ではないが、あの男の仲間にも涙なんて見せたくない。肩を滑り落ちる、忌まわしい金の髪を掻き上げて、彼女は大きく息を吸い込むと、ベッドから絨毯の床に降り立った。
 ここは、客観的に見れば申し分のない部屋だった。
 広さは十畳ほどだが、床には毛足の長い絨毯が敷きつめられ、温度はいつも一定に保たれている。ベッドの上にはもちろん羽毛の布団、天井まで届く本棚にはあらゆるジャンルの小説が積まれ、彼女が望めば別の分野の本もほとんどは手に入るし、それはCDにもビデオにも言えることだった。足りない物など、ほとんどないような部屋だ。
 自由、以外は。
 外との接点になるものが、ここには置かれていなかった。電話も、パソコンも、そして窓も。
 扉の方へ向かって歩き出した彼女の耳に、ノックの代わりに暗証番号を入力する電子音が届いた。静かに重たい扉が開いて、白衣の若い女が食事を持って入ってくる。すぐ目の前に彼女が立っていたので一瞬は驚いたが、白衣の女はすぐに冷静な動作で食事をテーブルの上に置いて、彼女を見た。彼女は無表情に、白衣の女に頷いてみせた。手伝ってもらわなければならないほどの痛みではない。女は理解したらしく、盆を片手に黙って出て行こうとし、彼女は片手で扉を支えて女を送りだした。
 背後から殴りつけて、その隙に部屋を出ることはできるだろうが、誰も彼も見境なく殺そうとするほどの気力は、もう彼女にはない。誰を襲っても同じこと、自分はあの男からは逃げられない。
 扉が閉まり、聞き慣れた錠の降りる音が、また彼女の心臓に抜けない釘を打った。彼女は目を伏せた。
 扉さえ内側からは開けられないこの部屋で、自分の意志では一歩たりともここから出ることなく、彼女は十四歳の夏から三年の時を過ごした。
 外の様子を知ることのない彼女には、今の季節はおろか今日の天気も判らないが、一年に一度、ローソクの数が一本ずつ増えたケーキをあの男が用意するので、年数だけは数えられるのだ。それが本当に、年に一度の彼女の誕生日であるかどうかは、信じる以外にどうしようもないけれど。
 学校へも行かず家族にも会えず、この部屋で自分を飼っている、科学者で、医者で、大学の理事長でもある植村賢允(うえむら・たかよし)と、その仲間以外の人間は見ることも叶わない環境で、三年間。
 だがどんなことでも、人間は慣れるものらしい。自分はまだ生きている。吐き気がするほど正気で。
 だけど。
 今日からもそうだろうか?
 この部屋には鏡がない。だから自分の目で自分の姿を見てはいない。けれど三日前の『移植手術』で明らかに変えられた外見に、これ以上正気でいることなんてできるのか。このおぞましい、背中に張りついているもの。これにもいつか慣れるのか。
 扉から離れようと一歩踏み出して、彼女は足を止めた。ビリッと背中が痛んだ。息を整えて、もう一歩踏み出してみる。動けない。壁にあるスイッチで明かりを全灯にして、もう一度やってみたが、やはり動けない。誰かに引き止められているみたいに。
 行くな、と。
 また背中が痛んで、彼女はゆっくりと振り返った。見る前から正解は判っていたが。
 翼が扉に挟まっている。
 ──これだわ。
 彼女はぶるっと身震いした。怖いからではない。 
 あたしはこれを待ってたんだ。夜中にあたしを責め苛む恐ろしい夢よりも、現実の方がよりおぞましい悪夢。この、合成繊維の純白の翼、こんなもの必要ない。あたしは人間だから。こんなものいらないわ。
 彼女は動かない足を無理に進めて、手を伸ばした。背中一面の激痛に指が震えて、ベッドまで届かない。
 こんなことをしても、植村からは逃げられない。一生自由になんてなれないと判ってはいるけれど、それでも突き上げてくる、破壊の衝動。壊したい。何もかも。めちゃくちゃになればいい。
 指先がベッドの縁に触れた。彼女は力一杯縁を掴んで、翼を引き抜こうとした。扉からではなく、自分の背中からだ。
 首のボタンだけを止めてある、まるで割烹着のシャツの背中から、何にも邪魔されることなく生えている二枚の白い翼は、百六十センチ近い彼女の身長よりもまだ大きい。
 手足と同じように動かし、訓練によって意志の力で飛べるようにするために、完全に神経も接続されている。無理やり引きちぎろうとしたら、痛くない筈はない。
 それでもいい。どうせ元から痺れていたのだし、それにそう、痛みにだって、いつか慣れる。
 左目の下を、冷たい雫が流れ落ちて行った。涙なのか冷や汗なのか、彼女にも判らない。
 癖のない長い金髪が頬に張りついて、彼女は苦痛に目を閉じる。日に当たっていない白すぎる顔が、もう何年も見ていない夕日のように赤くなっていることも知らず、彼女は体から翼を引き剥がそうと、ますます力を入れた。
 ……びしっ。
 衝撃が稲妻のように、背中から脳天を貫いた。彼女は目を開いた。荒い息を繰り返して、恐る恐る後ろを見ると、右の肩甲骨の下辺りにある翼の付け根から、少しちぎれかかっている。まるでそうしろと天が導いているように、二枚ともしっかりと扉にくわえこまれている翼、この調子で続ければ、きっとちぎれる。
 背中そのものが心臓になってしまったかのように、熱く脈打って、喉を幾筋もの脂汗が流れ落ちていく。
 自分がこの努力を初めてから、どのくらい時間がたっただろう。十分か、それとも一時間か。この部屋には時計もない。その上ハサミも、花瓶も、凶器になりそうな物は一切ない。
 三年前に一度、本をぶつけて天井の蛍光灯を割って、その破片で手首を切ろうとしたが、未遂で止められ、罰として数日間無灯の暮らしをさせられた。二度とやらないと誓って、また元の生活に戻してもらったけれど。
 それは、時間的にはほんの二・三日くらいのことだったろう。だが永遠に感じられた。文字通り何も見えない、無限の闇。手触りだけが頼りの世界の中で、植村は彼女の聞いたことのないクラシックのCDを、二十四時間、大音声で掛けっぱなしにした。
 細胞の一つ一つが幻覚を見た。眠っているのか、これが夢なのか現実なのか、区別なんてつけられない。自分は今、目を開けて闇を見ているのか、目を閉じているから何も見えないのか、ここはまだあの部屋なのかそれとも別のどこかなのか──……狂いそうになる瞬間を見計らって、あの男はドアを開ける。
 誓うんだ、もうしないと。勝手に死んだりしないと。
 ──でも逆らわないとは言ってないわ。
 彼女はいっそうベッドを掴む力を強くした。酸欠で頭の中に靄がかかり、足が震える。立っていられない。でもどうしても、翼を背中から剥がしたい。
 あの男にだけは……負けたくない。
 どれだけ時間が掛かってもいい、痛いのなんて全然平気だ。あいつに思い知らせてやる、あたしは決して思い通りにはできないことを。何度でもやってやる、あたしはグロテスクな自分にも、あいつにも、絶対慣れたりなんてしない!
 みしみしっ、と信じられないほど大きな音を立てて、翼が裂ける。引き離されまいとする体の悲鳴だ。自分自身の一部をもがれる、筆舌を尽くす痛みに彼女は絶叫したが、喉から洩れたのは、絶叫と同じ勢いの息だけだった。
彼女はここへ来てからおよそ一ヵ月後、植村が彼女の利用法を決めた十四の秋、彼女にとって第一回目の手術で声を失った。以来、彼女の喉はもはや一音も発することができない。笑い声も、悲鳴も、何もかも。
 彼女は泣いた。痛いからなのか悔しいからなのか、自分でも判らない。血が流れない代わりにますます鋭敏に感じられる痛みに、彼女は歯を食いしばる。
 不意に、どさっ、と彼女の体が床の上に投げ出された。
 ドアにつながれていた体が自由になったからだが、途中でベッドに額をぶっつけたことにも、彼女は気づかなかった。目眩のする頭を右手で持ち上げるようにして起こし、恐怖なのか痙攣なのか判らないが震えながら、振り返る。
 翼は扉に挟まったまま、彼女が立っていた時と同じように床まで届いて、目に痛いくらいの輝きを放っていた。彼女の体から離れてもなお美しく、まるで舞い降りた天使の化身のように。……悪魔の脱け殻のように。
 背中の激痛と、翼を引き剥がせた安堵に、彼女は意識を失った。束の間か、それとも半日以上か、しかし夢の訪れない静かな眠りから、乱暴な勢いで開いたドアが彼女を起こした。
「信じられないな、おまえは!!」
 開けた拍子に落ちた翼を跨いで、土足で部屋に入った植村は、容赦ない力で彼女の襟首を掴んで引き上げた。
「少しは大人になったかと思ったが、十七にもなってもまだ子供だな。こんなことをして何になる?」
 オーダーメイドのスーツが、きちんと整えられた少し癖のある髪とよく似合っている。真剣な顔や、穏やかな微笑を浮かべている時の彼には、目尻の皺にも白くなり始めた生え際にも、権力者にふさわしい威厳があり、そうでない時の彼を想像させる部分は微塵もない。
「翼がなくなれば、元の自分に戻れるとでも思ったのか? 甘いなおまえは、何年ここにいるんだ。私にそんなぬかりがある訳ないだろう、おまえには金が掛かってる。おまえが思う以上にな」
 今年で五十一になる植村は、日本人にしては大柄で、力では彼女がまともに争って敵う相手ではない。
 喉を締め上げている彼の手を解こうと、彼女はもがき、彼女の爪に植村の血が入るほど引っ掻かれて、やっと男は手を離した。華奢な体を乱暴に突き放す。
 咳き込んでいる彼女に、植村はもがれた翼をドアの前から掴んで突きつけた。目を背ける彼女の前髪を掴んで自分の方を向かせ、十センチと離れていないところから鼻で笑う。
「突然変異の紅の目、か。どう見ても気持ち悪いのに、おまえは私の知っている女の中では一番綺麗だ」
 彼女の前髪から手を離して、植村は背後のドアを開けに立った。廊下に、彼の部下で協力者の外科医が現れている。外科医にちぎれた翼を渡して、植村はもう一度嗤った。医者でも理事長でもない顔で。
「せっかく痛い思いをしてちぎった翼だが、残念だったな、おまえの翼はトカゲの尻尾と同じさ。五日もすればまた再生する、たったの五日でな」
 研究熱心な、科学者の顔で。
「血の色の瞳、声の出ない喉──心配しなくても、おまえはもうとっくに人間じゃない」
 彼女は目を伏せた。言葉だけならいくらでも言えばいい。聞きたくはないけれど、嫌がらせにも慣れている。
 何もかも、この男のすることになんて、傷ついたりしてやらない。
 背中を診察するために入ってくる外科医と、入れ替わりに出て行こうとする植村のスーツの裾を、彼女は掴んで引き止めた。
「何だ? 何か言いたいことでもあるのか」
 彼女は頷いて、絨毯に指で字を書いた。表情も変えずに植村はそれを読むと、冷やかだがあっさりと首肯した。
「太陽? 突飛だな、でもまあいいだろう、嫌と言うほど見せてやる。今回の仕置きだ。これに懲りたら、もう二度と人が三年掛けて作ったものを、壊そうなんて考えるんじゃないぞ。……弦谷(つるや)、後は頼む」
 植村より五つ年上の外科医は、変質的な声で返事をした。人の体を切り貼りするのが好きだと臆面なく言い、現代のフランケンシュタインと自称する男だ。弦谷と二人だけ部屋に残されて、彼女は背中の痛みが増したような気がして呻いた。
 もちろん、声は出なかったけれど。

               ◇     ◇     ◇

 何度も何度も、夢にまでしみ込んで頭上から話しかける声。嗚咽まじりに胸を震わせて、この胸を震わせる。
 ごめんね、許してなんて言えないわ。
 謝らないで、許さないから。だから泣かないで。大好きだよ。
 母の涙も、幼い弟妹の手も、この身を引き留められない。どんな願いも叶わない銀河の星の彼方へ。
 ごめんね、でもお願い、どうか覚えていて。
 忘れることを許さない、決して逸らせないまなざし。
 どんなに辛いことがあっても、どんなに酷い目に会っても。大丈夫、必ず幸せになれるわ。あなたと、いつか出会うあなたの愛する人のために、最後まで絶対に諦めないで。
《いつか出会う愛する人のために》
 どんな時も立ち上がって、前を向いてね。戦うのよ、全力を出して。
《この力の総てを》
 あなたのこの、小さくて柔らかい女の手は殴るのには向いていないけれど、でも抱きしめることはできるわ。こんな風に、命の温もりを分けられる。だから戦う前に負けを認めたりしないで、あなたの総てで守るのよ。きっともう会えないけれど、最後の約束よ。
いつか天使が降りてくる。
 誰の胸にも、正しい道を示すために。
《忘れないで》
 この胸を震わせる、言葉。
 それは偶然のようにさり気なく……強い、絆。
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# by new-chao | 2005-02-09 06:08 | 小説-Angel(1)

Angel

     1.  冬の雨

 すぐ脇を大型トラックが走り抜けて、風が黒いハーフコートの裾を巻き上げて過ぎて行った。
 今の生活そのものみたいな、灰色のアスファルトの歩道に、ぼんやりと伸びる影。日ごとに季節は冬へと近づいている。耳と鼻の頭だけが特に冷たい。
 ほとんど空っぽのバックパックを背負い直して、凌は両手をコートのポケットに入れた。それを待ってました、と言わんばかりに、クラスメートの少女が腕を絡ませる。凌は鬱陶しげにおざなりな目つきで彼女を見たが、少女は気づかなかったらしく、少し前で車道との境の分離帯を跳ねるように歩いている、こっちも同じクラスメートの哲明(てつあき)の背中を指さして笑った。
「江藤チョーかっこ悪い、それair maxのばったもんじゃないのー?」
「ばれた?」
 もこもこダウンジャケットの腕を組んで、哲明は照れた様子もなく言う。
「おばーちゃんが、流行ってるんだろうって買ってきてくれちゃったからさ、お年寄りは大切にしなきゃだろ? それに俺、靴なんて履けりゃ何でもいいし、airがeirでもどーでも」
「信じらんない、江藤ってそおゆう人?」
「そういう人」
 数年前に流行した、ブランドスニーカーに似せたデザインの靴先を弾ませて、哲明はアスファルトの破片を蹴り飛ばした。
 信じられないのはおまえの方だろう、俺たちは別に恋人でもないただのクラスメートだっていうのに、馴れ馴れしく腕なんか組んでくるんじゃねーよ、と凌は思ったが、口に出すのは面倒なので黙っていた。
 凌は百八十センチ近い長身なので、少女の頭は彼の顎までしかない。彼の肩に頬を押しつけるようにして、少女はきれいにマニキュアした長い茶髪を掻き上げる。振り返った哲明が、仕返しのつもりかその髪を軽く引っ張った。
「ますます茶色くなったんじゃねーの? チエリちゃん。担任の奴に、なんて言ってごまかしてる訳?」
「部活の練習頑張りすぎて、塩素で色が抜けちゃったって言ってる。完璧じゃない?」
「水泳部今泳いでないじゃんよ、十一月も終わりだぜ。大体夏からずっとさぼってるだろ、俺たちと同じでさ」
「ばれたー?」
 チエリは、きゃはは、と明るい声で笑う。
 彼らの学校は比較的服装にうるさい公立高校だ、二年も前なら許されなかっただろうが、言いだせばキリがないので、今ではこの程度のカラーリングは大目に見ているのだろう。凌自身も、校則では眉の上で切らなければならない前髪が、ほとんど目の下まで伸びている。
「あっ、チエリずるーい、抜け駆けなんかして!」
 後ろから甲高い声が割り込んで、チエリは凌の腕を引き寄せたまま振り返った。彼女に引っ張られて、凌も振り向かずにはいられない。
チエリも二人目の少女も、細く整えた眉が大人の女のようだ。朝どのくらいの時間を、あの顔を作るのに費やしているのか。でも自分には関係ない。
「真壁君はチエリだけの真壁君じゃないんだからね、そんなにくっついてずるいよっ」
「ずるくないよーだ、あたし凌のカノジョ第一号だもん、ねー凌」
 上目使いのチエリから目を逸らして、凌はふいっと遠くを見やった。
「さあな」
「真壁君違うって言ってんじゃん、離れなさいよお」
「やだもーっ、凌って本当クールなんだから」
 そこがいいんじゃないの、そんなこと判ってるわよ、と女同士じゃれ合い出したのを機に、凌はするっとチエリから右腕を離した。気がついた彼女がまた腕を回そうとするのをさり気なくかわして、歩調を速める。
 学校から最寄りの無人駅までは、もうすぐだ。昼間は各駅停車の電車しか停まらないので寂れているが、朝と夕方、今時分の登下校時だけは、彼らの学校の生徒だけでホームが一杯になる。この道は交通量の多い大通りだが、駅に向かって一本入ればもう淋しい裏道で、駅を使う学生以外はほとんど誰も通らない。
「あっ、ねえ真壁君」
 結局、仲良く二人で凌を挟むことにしたらしく、左側を陣取った二人目の少女が、彼を見上げて口を開いた。去年同じクラスだったような気もするが、凌は彼女の名前を忘れている。
 自分の回りをちゃらちゃら付きまとう女なんて、みんな同じように見えて、名前なんか一々覚えていられない。
「真壁君ってバイクじゃなかった? なんで今日みたいに天気のいい日に電車なの?」
「いーじゃん、長く一緒にいられるんだからさっ」
「そうだけど、なんでかなと思って」
 バイク通学も禁止されている。学校の近くで大きな声で言わないでもらいたい。
 沈んでゆく夕日の方に目をやったまま、答えようとしない凌の代わりに、哲明が大きな目をくるりと悪戯っぽく光らせて返事をした。
「残念だけど一緒じゃないよ、今朝凌のヤツやばくってさ。バイクいつも置いとく裏のほん」
「おまえら走った方がいいんじゃねーの」
 今朝のことを話しかけた哲明の言葉を、凌の無愛想な声が遮った。ちらりと見た腕時計の針は四時半を過ぎている。三十六分には、一時間に二本しかない電車の片方がホームを出る。
「やだ本当だ、チエリ行こっ」
「えーっ、あたし凌と一緒に歩いてこっかなあ」
「俺は付き合わねーよ」
「冷たあい、じゃあまた明日ね」
 少女たちが走って行ってしまうと、やっと自由になれて、凌は深呼吸して腕時計の左手をポケットに戻した。分離帯から降りた哲明が横に並んで、凌は七センチ下にある哲明の顔を見下ろす。
「本屋の駐車場にバイク置いてることまで言うなよ、次からそこで待ち伏せされちまう」
「チエリちゃんたちそこまでやる?」
「あいつらじゃなくてもやる」
「俺もされてみたい」
 両手を握って『神様お願い』ポーズの哲明を、凌は爪先で軽く蹴ってやった。こっちは付きまとってなんか欲しくないのだ、追い払うのも面倒臭いからそのままにしてあるだけで。
二人の後ろから走ってきた四・五人の少女たちが、追い越しざま「凌、バイバーイ」と手を振って行った。無反応の凌の分まで、可愛い子なら何でも来いの哲明が手を振り返してやる。
「凌もちょっとぐらい優しくしてやればいいのに」
「してやってるだろ」
 変わりかけた信号を、見もせずに横断歩道を渡って、凌は少し笑うように唇を歪めた。
 哲明には言っていないが、昨日の夜もチエリと会っていたのだ。彼女をカノジョだとは思っていないが、会うぐらいは別に嫌ではない。
 チエリに限らず、自分を恰好いいだの、好きだのと、アイドル扱いする女たちは、一緒にいる間自分がほとんど黙っていても勝手に喋って、それで時間が過ぎて行くからだ。誰かと会っていれば家に帰らなくて済むし、一人で時間を潰すより言い訳がしやすい。誰よりも、自分自身に。
 一方的に俺を好きだの何だの言ってるだけならいい、悪い気はしない。でもその返事を俺に求めるな、俺に干渉するな。見返りなんて俺には返せない。俺はおまえたちを──好き、じゃないから。少なくとも、クラスメートとして以上には。
 凌の表情を見て、哲明は追求するのを止めて明るい口調で言った。
「ま、いいけど。あー、暇だなあ。どうする? 今日、俺ん家でも寄ってく?」
「ん……そうだな」
 バイクの置いてある市営駐輪場へと足を進めながら、凌は曖昧に頷いた。脱色しているので余計に洋画の子役みたいに見える、哲明の癖のある柔らかい髪が、風で立ち上がって海中の昆布のように揺れている。
 去年一年間は、まだ入学したてで珍しさもあって、真面目に水泳部の練習に出たが、今年は何だかそれも無意味に思えて、幽霊部員になってしまったので、放課後は時間が余っている。今夜は予定もないし、せっかくだからこの伸びすぎた前髪を切りに床屋へ行くべきか。
 駅に続く一本道を行き過ぎて、次の角を曲がって細い通りに入ろうとした時、後ろから男の声が二人を呼び止めた。
「ちょっとそこ行く色男」
「俺のこと?」
 聞き覚えのある声に、大真面目に返事をした哲明の言葉を鼻で笑って一蹴すると、学生服の襟の下にタートルネックセーターを覗かせた彼は、歩きながら二人を等分に見やってニヤニヤした。
「月曜に六時間目まで出るなんて、珍しくイイ子ちゃんじゃないか。なんでこんなところにいるんだ? とうとうバイク通学がばれたのか?」
「違うよ政士(まさし)、凌がドジ踏みかけたから。たまに乗せてもらう時に限ってこれなんだよね」
「文句言うなら自分のに乗って来いよ、事故ったくせに」
「事故ったのは俺じゃなくて兄貴だって」
 襟にきっちり計ったような位置に止めてあるクラスバッジの色は青、凌より一つ年上の三年生だ。自分とは対照的に、刈ってきたばかりらしい襟足が寒そうで、政士はますます優等生に見える。
 二人に追いついた政士は、だからどうしたんだよ? と凌を見上げた。
「テツの兄貴がコケたんだって。だから今日だけ迎えに行ってやって、いつもよりちょっと遅れていつもの本屋に行こうとしたら、後ろから数学の横沢が来やがるのがミラーに写ってさ。しょうがねーから他人のふりして、こっちに停めに来たんだよ。おかげで遅刻になっちまった、テツのせいだぜ」
「バイク通学なんかしてるからだよ。自業自得って言わないか、それ」
「さあな。それより政士こそ何だよ、なんか嬉しそうじゃねーか、何かあったのか?」
 凌が言うと、普段は警官みたいに冷静な政士の顔が、よりいっそうニヤけた笑顔になった。実は、と言いかけるのを遮って、哲明が口を挟む。
「判った、あれだろ、女だろ? なんとかショーコとかって、年上の」
 言いおわった途端、政士がギラリと彼を睨んで、哲明の顔の真正面に人指し指を突きつけた。
「そういう発言は二度としないように」
 他に人けがないので、風の音がやけに大きく聞こえる。凄味を効かせたつもりらしい政士の声音を気にする風もなく、はいはい、と哲明は軽く受け流した。
 わざわざ人の通らない、誰か住んでいるのかどうか判らない壊れかけた長屋や、いつから置いてあるのか判らない錆びた機械が居座っている空き地の裏を通っているのも、バイクを取りに行くところを、小うるさい奴にみつからないためだ。
「女じゃないんなら何だよ?」
 中高生は大抵の場合、一コの年の差でも上下関係が厳しいものだが、彼らはそれ以前からの付き合いなので、形ばかりの敬意のかけらもなくタメ口をきいている。
 政士は手入れしている訳でもないだろうに、妙に爪の形のきれいな指先で哲明の額にデコピンをかまして、得意気な笑顔になった。
「実はさっき担任に呼ばれてさ、……指定校決まったって」
「推薦?」
 哲明の声に政士が頷くより早く、凌は両手を上向けて差し出した。政士が両手で叩き、お返しに凌も叩き返す。
「やったじゃん」
「サンキュ、これで今日からまたおまえたちのバカにも付き合えるぜ」
「バカって誰?」
 白々しく言いながら、哲明も政士と手のひらを叩き合う。それを見ながら手をコートのポケットに戻すと、バイクのキーの角が凌の指を刺した。その痛みに気づく筈はなく、政士は寒空を見上げている。
「西の方にでかい雲があるなあ、降りだす前に帰ろうぜ」
 十七年も道を三本隔てただけの距離にある家で、同じように生きてきたのに、自分と政士は全然違っている。政士は高校三年にしては落ち着いていて、凌の両親にまで信頼されている秀才だ。彼には夢があることも知っている。
 だが自分は特に目標もなく、何となく毎日を過ごしている。このままじゃいけないと思うこともあるが、行動を起こすのも面倒だし、それに別に、やりたいこともないし。
 勉強なんか嫌いだ。学校に行かないで、日がな一日ぼーっとしていられたらどんなにいいだろう。女は鬱陶しいし、でも家にいたら家族がうるさい。ほっといてくれよ、頼むから。
 油断したら、足元がうにゅっとぬめった。日当たりが悪いから、いつまでも土が濡れたまま泥になっているのだ。笑う哲明の靴に泥をなすり付けて、凌はポケットから手を出すとズボンの裾を捲くり上げる。
 右側には枯れた雑草の茂る、一メートルぐらいの高さの土手がある。ここを登ると、やっぱり何年も使われていなさそうな、壁の剥げた元製薬会社か何かの小さな建物があって、その敷地を横切ると駐輪場の裏に出るのだ。凌は前髪を掻き上げると、転ばないように気をつけて土手に足を踏み入れた。
「そうやってデコ全開にすると、凌って本当に似てるよな、キムタクに」
「あ?」
 政士が急に言うから足が滑ってしまった。転ばないようにその勢いで駆け上がる。
「何言ってんだよ、似てねーよ」
「自分の方が二枚目だって言うんだろう」
「凌の方が背も高いしマッチョだし、あいつより絶対女も泣かせてますって?」
「勝手なこと言」
 言いやがってと言いかけて、アスファルトに足を着いて顔を上げた凌は、声を途切らせた。
汚い二階建てビルの裏の、今はちょうど日陰になっている壁際に、こんなところにある筈がない物が置いてあるのだ。朝、ここを通った時にはなかったと思う。走り抜けたからしっかり見た訳ではないけれど、あったら気がつく筈だ。
「凌、どうかしたのか」
 続いて上がって来た二人に、凌は十五メートルほど離れたところにある『物』を指さした。
「あれ何だと思う?」
 抑えた低い声に、二人も自然と息を殺して目を凝らす。まさか、という思いが頭に浮かんで、思いついた名前をかき消したが、素直な哲明が一番に答えを口に出した。
「……檻だ」
 呑気な口調に政士が怒ったような勢いで、だがボリュームは下げて言う。
「檻? こんなところに檻なんかある訳ないだろう、誰もいない汚いビルに」
「でもあるんだから仕方ないだろ、俺が置いた訳じゃないよ」
 中は空ではない。丸くうずくまっている灰色の姿が見える。
 何だか不気味に静まり返って、風まで止んでしまった。割れたアスファルトの間から立ち上がる名もない草だけが、妙に現実的だ。
「ちょっと……行ってみよう」
 勇気を奮い立たせるように政士が言って、哲明が続いた。凌も最後に歩きだす。
 近づいて中の動物を見るのは、どうしてか嫌な気がしたが、言えなかった。見る前から、何がいるのか判っているような気がして。
 檻の大きさは高さがせいぜい二メートル、アスファルトの地面から少し浮かせてある底面と天井は一面の黒い鉄板で、四方は縦に十五センチぐらいの間隔で並んだ同じく黒の鉄棒が囲んでいる。
 中の生き物は死んだように動かず、どっちが頭なのか判らない。いや、あの灰色のはただの布で、丸めて中に入れてあるだけみたいにも見えるが……。
「あ!?」
 檻まで五メートルのところまで近づいて、哲明が大声を上げた。凌も驚いたが、中の動物の方がもっとびっくりしたらしく、ガバッと身を起こして三人を振り返った。被っていた灰色の布が、狭い床に滑り落ちた。
「……女の子だ」
 哲明の声をかき消すように、突風が雑草を凪ぎ倒した。
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# by new-chao | 2005-02-09 06:06 | 小説-Angel(1)

Angel

 三人が近づくのに合わせて、中の少女も立ち上がる。冷たい鉄の床に、素足。
「なんで女の子が……っ」
 近寄って行きかけた政士が絶句して、思わず一歩後ずさりした。
 年は自分たちと同じ十七・八歳ぐらいか。冷たい風の中、黒のタートルネックの上に薄っぺらな丈の長い白いシャツを羽織って、白のワイドパンツを履いているだけだ。灰色の布だと思った物は、自転車などに被せる雨よけのカバーだったらしい。
「政士どうしたん」
 追いついた哲明の言葉も、途中で途切れる。彼女の顔を正面から見たからだ。
 細い肩から胸に流れ落ちる、長い金の髪。彼らを見つめる、まるで燃え盛る炎のような……紅い、瞳。
「あ、っと、君は」
 政士は大きく深呼吸して、文章を考えながら言った。相手は檻の中だ。危険はない、筈だ。
「どこから来たんだ、どうしてこんな風に閉じ込められてるんだ?」
 赤い目の人間なんて、いる訳ない。
 政士に励まされたのか、哲明もようやくいつも通りに口を出す。それで政士も我に返ったらしかった。
「誰がこんなことするんだよ人間相手に! なあ、あんた名前は? 親とかどうしてるんだよ!?」
 やっと動けるようになった二人が駆け寄って、勢い込んで少女に尋ねるのを、凌は少し離れて聞いていた。
 怖くて動けなかった訳ではない。日本人じゃなくても、赤い目の人間なんている訳ないとは思う。
 でも怖いとか、気持ちが悪いとかはまるで思わなかった。いろいろ疑問はあるけれど、訊きたいのはやまやまだが、それよりも何よりも……彼女から目が離せない。
 艶やかに、滑らかに肩を覆って風に揺れる、癖のない金髪、手を加えていないので素朴な曲線を描く淡い茶色の眉、太陽の光が微かに当たって、色を変えた大きな夕焼けの瞳、何年も日に焼けたことがなさそうな白い──血の気を全然感じさせない肌。同じ人間だなんて思えない。
 ……美しい。
 顔だちは東洋人なのに、見事な金髪に囲まれた小さな顔はどこか不似合いで、赤い目だってもちろん普通ではないけれど。でも檻の鉄棒を握る細い指も、何か言いたげに開かれた唇も、神々しいほどに。
 二人に詰め寄られた少女は怯えたような、困ったような視線を宙にさまよわせて、救いを求めるように凌を見た。
 血の色の目が。
「なあってば、何で黙ってるんだよ、耳聞こえるだろ? やっぱり日本語判んないのかな、外人のサーカスか何かで」
 ──この胸を震わせる。
「俺の言ってること判る?」
 哲明の言葉に、少女は慌てて首を縦に振った。続けて右手の指で自分の喉を指し、その手を口の横で閉じて開く動作を二回して見せ、それから両手の人指し指を立ててクロスさせる。はあ? と哲明と政士が顔を見合わせ、凌は見たままを文章にする。
「喉が悪いから話ができない、って言ってるみたいだぜ」
 凌の言葉に、少女はまだ強張った顔のまま何度も頷いた。あっ、と呟いた哲明が手のひらで拳をポンと叩く。
「判った、彼女かぐや姫なんだよ。月から落っこっちゃって、喋れないから悪いおじいさんに捕まったとかさ」
「江藤って本当に天然ボケ、喋れないのは尻尾の代わりに足を貰った人魚姫って、昔から相場が決まってるだろ。お母さんに習わなかったのか?」
「判ってるよ、ジョーダンよ。政士って冗談の通じない奴だなあ」
 哲明の異常な順応性に、政士はわざとらしく大きな溜め息を着くと、制服の胸ポケットに入れてあった縁なしの眼鏡を掛けて凌を振り返った。
「それはまあどっちでもいいけど。この建物とこの人と何か関係あるかもしれないから、俺ちょっと表見てくるよ」
「あ、俺も行く。凌ここで待ってて」
 言われるまでもなく、動く気なんてなかった。哲明を見もせずに首だけは動かしたが、まだ彼女から目が逸らせない。彼女も凌の顔を見つめたまま、瞬き以外何もしなかった。呼吸さえしていないように見えた。
 キンと張りつめた、見えない糸に縛られて動けない。いや、動いている。
 近づいて。一歩ずつ。
 締め上げられて、引き寄せられるように。鼓動が聞こえそうなくらい近くに。
 吸い込まれる──……。
「何もなかったよ、凌」
 哲明の声に凌ははっと我に返って、一歩後ずさった。ついでに自分でも気づかないうちに伸ばしかけていた手を、コートのポケットに戻す。そんなつもりはなかったが、もう少しで彼女の手に触れるところだった。
「え?」
「看板は外されてるし、ドアにもしっかり鍵が掛かってて中の様子も見えないし」
「でもタイヤの跡が残ってるから、今日ここに檻を運んできたのは間違いないみたいだけどな」
 哲明の後を引き取って付け加えた政士は、眼鏡を外して二人を見た。
「それで俺たちはどうするんだ、このお姫サマのこと」
 哲明は少女を見ないようにして癖毛を掻き上げる。
「どうするって、事情も全然判んねーし、どうしようもないだろう」
 それはそうだ。自分たちには何も判らないし、関係もない。この寒空の下、知らない女のためにいつまでも立ってるなんてごめんだし、いつもなら一番に、いいから放っとこうぜと言うのが自分なのだが。
 凌は少女を見た。
 寒さに震える指先が、少しでも風を防ごうと雨よけシートを拾って、華奢な肩に羽織る。
 目が合った。心臓が跳ね上がった。
「そうするしかしょ」
「逃がす」
 政士が言いおわる前に割り込んだ凌の声に、二人の友達と少女は呆気に取られて彼を見上げた。
「逃がす、って凌、おまえ自分が何言ってるか判ってるのか?」
 責めるような政士の声は、凌の耳を素通りした。誰よりも驚いた表情で自分を見つめている彼女の視線に引かれて、誘われるまま、ポケットに戻した手を檻に伸ばす。だが彼女に触れないよう、意識して、彼女の右手のすぐ隣の棒を握った。
 もし彼女の目が、自分たちと同じ当たり前の黒い瞳だったとしたら、俺は彼女をチエリと同じように、ただ人より派手に髪を染めているだけの女だと思っただろうか。すれ違っても特に気にも止めずに、他の誰かと見分けが付かずに。
 そんな筈ない。
 それが何なのかは判らないけれど、閉じ込められていても、太陽が当たらなくても、失われない強い光。
 誇り高い──俺にはない何か。
「こんな風にされてて嬉しい筈ない、動物園の猛獣じゃねえんだから」
 横二メートル奥行き一・五メートルの小さな檻だ。風雨を避けることもできない、冷気を遮るものもない。
 牢獄。
「おまえずっとここにいたいのか? 違うよな? だっておまえは、人間だろう?」
 何気なく口にした彼の一言に、少女の顔色が変わった。
 強く頷く。確かめるように彼を見上げて、もう一度。
「自由に、なりたいよな」
「凌、おまえ」
 女の顔なんてどれも同じように見えていた。
 でも彼女だけが違う。俺を惹き寄せる。理由なんて必要ないぐらい、瞬きする間も惜しいほど、強烈に。
「俺は真壁凌、こっちの天然ボケが江藤哲明で高二、そっちの秀才が三年で篠田政士だ。おまえは……姫、でいいよな?」
 少女の唇が動いて、凌、と彼の名前を刻んだ。声は出なかったけれど、判る。
「自由にしてやる」
 少女の目から、涙が一筋、白い頬を伝い落ちた。彼と同じ透明のきらめきが、一足早い雨のように。

               ◇     ◇     ◇

 話し込んでいたら、電車を一本乗り遅れてしまった。
 小物がカタカタ音を立てるブリーフケースを胸に抱え込んで、天堂晶子(てんどう・しょうこ)は改札から直線距離で二百メートルの位置にあるバス停を目指して足を速めた。ブーツの踵が折れそうで走れない。
 ゼミの後だと他の学生も群がってなかなか教授に質問できないので、帰りがけに教授が一人でいるのを見つけた途端に捕まえてしまったが、なにも夜に予定の入っている日の夕方にすることはなかったのだ。三時間も話し合った挙げ句に、夕飯とお茶まで御馳走になるなんてことは、なおさらするべきじゃなかった。たとえ卒論の提出日まで、あと一ヵ月を切っているとしても。
 寒い。
 横断歩道に一歩踏み出したところで信号が赤になってしまい、晶子は夜道に苛々と爪先を踏み鳴らした。パーマのかかった短い髪に手をやって、無意識に乱れを直している。市営バスは七時を過ぎると本数が減るが、間に合うだろうか。
 誰も気にしちゃいないんだから信号ひとつくらい無視しちゃえばいいのに、と自分でも思う。だけどできないのだから仕方がない。合コンで知り合った、どうでもいい男とのデートは二・三度すっぽかしたが、信号無視は破れないルールのようなもので、どうしてもできないのだ。妙なところで几帳面というか、そういう性格なんだと諦めているが。
 友達との待ち合わせなら、遅刻はお互い様だと割り切ってもいいが、月曜の夜は遊びじゃない。バイトだ。相手の都合もあるから遅れるわけには行かない。
 やっと信号が青に変わって、晶子は勢い込んで歩きだす。遅刻しても、彼はきっと怒ったり厭味を言ったりはしないだろうが、だからこそ余計に申し訳ない気分になるのだ。
 夕方から雲が広がりだして、そろそろ雨も降ってきそうだし、濡れて行ったりしたら彼の母親まで盛大に気を使ってくれて、嬉しいけれど情けない思いをすることになる。そして年の割に落ち着いている彼は、きっとそれを見抜いて、よりいっそう気を使ってくれてしまうだろう。
 家庭教師派遣センターに登録して四年目、春に彼を紹介された時は、正直断ろうと思った。相手は受験を控えた高校三年生の、しかも男の子で、自分は今年就職活動だ。手に負えないと思った。だが目指しているのが自分の通っている大学で、成績優秀な子だから、アドバイスするだけでいいからとゴリ押しさ
れて、断りきれなかったのだ。
 いやいや指定された月曜の七時半に彼の家へ通い出して、最初の二回でいやいやが取れた。
 彼は今までに晶子が教えた学生とは違って、ちゃんと勉強して、生意気なところは全然なかった。家庭教師とは名ばかりで、自分のやることと言えば問題集の採点ぐらい、後はもっぱら、母親がお茶を出してくれる小さなテーブルで大学のレポートを書くことだった。これでバイト料が貰えてしまうのだから、家庭教師はやめられない。
 息抜きに、と晶子お薦めのビデオを貸したら、お返しのつもりか、彼のよく聞いている洋楽CDを何枚か貸してくれた。洋楽は聞き慣れない晶子も、綺麗な声とメロディーにファンになってしまった。誘ってくる大学の男よりも、彼のほうが趣味がいい。
 父親が警察に勤めているからか、彼は礼儀正しい。男の子にしては丁寧な字を書く。両親には言っていないけれど、音楽に係わって生きて行きたいと、夢を教えてくれた。
 上り坂の頂上にあるバス停に停まったバスが、もう出るぞとウインカーを出している。待って待って、といっそう足を速めた彼女の頬に、ポツン、と冷たい雫が触れて……晶子は立ち竦んだ。
 忘れていた。
「お客さん乗らないの?」
 運転席から身を乗り出して運転手が叫ぶのも、自分に言っているのだと気がつくまでしばらくかかった。外灯の光の輪から外れた薄闇の中で、ぼんやり突っ立って動かない彼女に痺れを切らして、怒ったような排気ガスを吐いてバスが停留所を離れる。
 ……先週で最後になったんだった。
 どうして忘れていたんだろう。前回でクビになったのに。推薦が決まりそうだから、もう来てもらわなくてもいいと。
 知らず知らず拳を握りしめていて、マニキュアの爪が手のひらに食い込んだ。
 急がなくてもいいんだ。もうあたしはあの人の家庭教師じゃないから。そうよ。彼の家に行くことはもうない。
 もう会えない。
 激しくなってきた雨が、晶子の髪に落ちて頬を濡らす。抱えなおしたケースの中で、借りていたCDがまた、カタ、と音を立てた。

                                               (2)へ続く
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# by new-chao | 2005-02-09 06:02 | 小説-Angel(1)

ちょびっと自己紹介

名前:チャオ(本名に非ず。当たり前か)

性別:概ねオンナ、ところにより一時オッサン

血液型:A  星座:さそり  動物占い:たぬき(当たってない!)

外見:中肉中背、かな。嘘。最近ちょっと太め。いかり肩。
    髪は長い。長さだけならシャラポアに勝ってる。
    色白。まつげ長。だが糸目。

性格:短気 沸点エタノール女と言われてる。
        (問。エタノールの沸点は何度でしょう)
    自分にも他人にも厳しい。嫌な性格だな(汗 
    自分で変だと思っても、人に変と言われると凹む。

好き:映画「ショーシャンクの空に」  作家新井素子、島田荘司など
    俳優ヒュー・ジャックマン ジェフ・ゴールドブラム 
    ゲーム「タクティクス・オーガ」(PS)
    犬 期間限定モノ プーさん 編物 ぬいぐるみ マニキュア 
    コーヒー 唐揚げ 車の中で歌うこと 犬抱っこして寝ること 

嫌い:アイロン掛け 細かい作業
 
最近泣いた:「白い犬とワルツを」テリー・ケイ
        「ジョジョの奇妙な冒険」荒木飛呂彦
        どっかの生命保険のCM、小田和正が歌って写真が出るやつ  

     
 
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# by new-chao | 2005-02-07 11:38 | チャオさんの独り言

ご挨拶

あー、あー。マイク入ってますか。
ええと、あんまり難しく考えないで、と言ってくださった方がいまして。頭使ってまた熱がでても嫌ですし。
こんにちは、チャオです。はじめまして。あるいは、いつもお世話になってます^^
そろそろインフルエンザ流行の兆しが見え隠れですが、みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
あたしもついに、ついに! ブログに手を出してしまいました。どうしよう。帰ってもいいですか。
しかしやると決めたからには、日記というか、ただ雑記だけ書くのも恥ずかしいので、さらに恥ずかしいものも公開しようと思います。
カテゴリ見れば一目瞭然ですが、あたし実は、小説屋だったのですよ。
小説を誰かに読んでもらうのって、日記読まれるより恥ずかしい気がする・・・・けど誰にも読んでもらえなかったら、それは小説ではないような。
と、いう訳で。なんか強引ですが。
せっかくここへ立ち寄ったんですから、まあちらっと1ページぐらい読んでって下さいませ。よろしければ全部。あ、ただ長いよ。一つの作品が、文庫本一冊分ぐらいありますからね。でも大丈夫、難しい話はないですから。
雑記のほうもぼちぼち更新していこうと思いますので、こっちの方もさらに気楽に、あたしのお喋りにお付き合いください。コメント付けてくれたら嬉しいな、交換日記みたいじゃない?
・・・・こんな、感じで、いいのかしら?
あがってるんで何言ってんだか、よく判らなくなってきました。
今後とも、ごひいきに。ぺこ <(_ _)>
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# by new-chao | 2005-02-07 11:11 | チャオさんの独り言