カテゴリ:小説-Angel(完)( 4 )

Angel

 5. ダイヤモンド

 あの男がどんなに優しい話し方をしても。
 信じたらいけない。それはあたしをなぶるための技だから。
 ……背中が、痛い。
『私はおまえの誕生日だけは、決して忘れない』
 激情の後に、眠れない夜に、あたしを包み込んでいたその胸が、どんなに暖かくても。
 いつからかその腕の中にいることに、意識しなければ嫌悪を覚えなくなっても。
 父親とは違う。まるで違う。あたしのことを哀れんで、偶然触れることも、目を合わせることすら避けていた父さんとは、違いすぎる。
『たとえ自分の誕生日は忘れてもな。何故だか知りたいか?』
 知りたくない。
 そんな風に、あたしに憎まれないようにしようとしても無駄よ。あたしはあんたを許さない。あんたの腕に抱かれている時でも、あんたの夢なんか見ない。
 太い指が髪を撫でて襟足へ、背筋から腰へ辿り着く。額を、鼻をかすめる外国人めいた高い鼻が、本当はそんなに嫌いじゃない。でもそれを認めだすと、他のことも認めなければならなくなる。小さめの、時折やけに可愛くなってしまう目も、固い二の腕も決して嫌いではないと。
 でも植村を憎んでる。
『それはおまえが生まれたその日に、私の娘が死んだからだ』
 あの男を殺したいほど憎んでる。
『まだ五歳だった。可愛くて利口で、私の宝だった』
 憎んでる。
『だが死んだ。おまえが生まれた日に』
 どんなに優しいことを言っても。
 暖かい手をしていても。
 あいつはあたしの家族じゃない。あいつはあたしを愛してる訳じゃない。あたしはあいつの手のひらの上で踊らされて、自由なんてどこにもない。失われた声は戻らない。この姿も変わらない。
 もう戻れない。
『だからこれは運命だったのだ。私とおまえは、めぐり逢うことが決められていた』
 ……背中が痛い。
 ズキズキと脈打って、背中の皮一枚下に棲んでいる生物が、皮を破って出ようとしている胎動のようだ。あの男の言う通り、引きちぎってから五日目の明日には、翼の再生が完成するだろう。人間とは思えないあたしの姿が、五日ぶりに蘇ってしまう。あの人にだけは見られたくない。もしもあの人が、あたしを恐れたら……。
 一生、あの研究所の一室で過ごすのだと思っていた。植村とその部下以外とは係わり合いになることもなく、二度と会えない家族の思い出だけを胸に、あの男を憎んで、一日も早く死ねることを願って生きていくのだと、思っていた。
 でもほんの気まぐれから外に出て、あたしはあの人に出会った。
 あの人に恋をした。凌はあたしに、忘れていた勇気を思い出させてくれた。もうあたしはどんなことが起きても、恐れないでいられる。あの人が傷つくことの他に、怖いことなんて何もない。
 そうよ。あたしには判る。きっと凌にも判ってる。
 あたしとあの人は、めぐり逢うことが決められていた。


 二日も無断で外泊してしまった。帰ったら、やっぱりお袋は怒り狂ってわめくんだろうか。俺はただ、姫の側にいたいだけなのに。あーあ。
 ため息は堪えたけれど、姫には伝わってしまったらしい。凌の買ってきたカフェオレの缶を両手で包み込んで、姫が彼の顔を覗き込んだ。真似するように、犬までがビー玉の瞳で彼を見つめる。
「何でもねーよ、心配すんな」
 飲み干した朝食代わりのストレートティーの缶を草むらに放り投げて、凌は身軽に立ち上がった。彼のジーンズを引っ張って、姫が睨みながら首を振る。言われたことが判らないふりをしようとして、凌は失敗した。すっかり顔を出した朝日の下、姫の目は一点の曇りもなく、駄目だと言っている。
「すいません」
 凌は素直に、投げた空き缶を拾いに行った。こんな当たり前のことを、姫に教えてもらわなければできないなんて、今まで缶をゴミ箱に捨てるなんて恰好悪いと思っていたのが、恥ずかしくなる。
 缶を手に戻ってきた凌の頭を、姫は母親が子供にするようによしよしと撫でた。凌はその手首を掴むと姫の脇腹をくすぐってやる。くすぐったがって姫が笑いながら身をよじり、仲間に入れろと言うように犬が吠えた。凌も吠え返して笑った。カフェオレがこぼれて姫の手にかかり、犬が舐める。
 彼女が犬とじゃれ合っているのを眺めて、凌は座ると思いきって口を開いた。
「姫、おまえ本当は、黒い髪なのか?」
 彼が訊いた途端、姫の笑顔がピタリと止まった。いつもまっすぐな視線が、何故か凌の目を避けるように宙をさまよう。
 そんなに答えにくい質問だったのだろうか。
「姫?」
 先刻とは逆に、凌が彼女の顔を覗き込む。姫が何か答えようとしかけた時、沈黙に男の声が割り込んだ。
「凌!」
 凌は振り返った。
「……政士」
 まだ学校が始まるまでにはずいぶん時間があるのに、相変わらずきちんとした制服姿で、政士が歩いてくる。凌は腕時計に目をやった。七時半より少し前だ。
「どうしたんだ、こんな早く」
「ああ、凌がここにいるんじゃないかと思って」
 政士はすたすたと近づいて、凌の隣のアスファルトに胡座をかいてから、思い出したように言った。
「いいかな」
 丁寧だがバカな質問に、凌は笑ってしまった。
「もう座ってるじゃねーか」
「そうだな。……姫、おはよう、元気?」
 姫は政士に向かって頷いてみせる。知らない人間の出現に犬は姫の後ろに隠れかけたが、政士が軽く握った手を鼻の下に差し出してやると恐る恐る匂いを嗅ぎ、政士は鼻面をそっとさすってやった。
「そう。凌は? 風邪引いたりしてないか」
「平気だ。そうだ、せっかくだから政士にはっきり姫から言ってやってくれよ。……病気なんかじゃないよな?」
 真面目な口調だった。姫と政士は同時に凌の顔を見て、その後姫は政士を見て頷き、口笛を吹いた。上がり調子に。
「イエス、って言ってるんだ」
「そっか。判った。……ごめんな」
「何だよ」
「別に」
 姫は不思議そうに二人を見比べている。凌は犬を触っている政士のきれいな手を見て、彼の横顔に目をやった。
 ガキの頃から当たり前のように側にあった、この横顔。まるで変わらない。変わらずに俺を……心配してくれてる。いつもそうだった。図体はでかくなったけれど、きっと今も変わらない。
「政士はさ」
 俺の方こそごめんと謝る代わりに、凌は政士のほうを向いて座り直した。
「きっとミュージシャンになれると思う。だから諦めんなよ、何が邪魔しても。誰が反対しても、俺だけはずっとおまえを応援してるから」
 政士は目を丸くして姫を見て、ニヤリと笑ってみせた。
「聞いた? 今の。何を突然言いだすんだろうね、こいつは」
「んだよ人が褒めてんのに。姫だってそう思うだろ?」
 姫は笑って右手の親指を立ててみせる。政士は照れたように笑うと前髪を掻き上げて、横目で凌を見た。
「サンキュ」
 凌は置いておいた畳んであるのこぎりを手に立ち上がり、切りかけている檻に向かう。俺も手伝うよ、と立ち上がりかけた中腰の政士を見たら、不意に思い出した。
 忘れてたなんて、バカだな俺は、切る必要なんかねーんじゃねえか。昨日見たんだった、あの小男が檻を開けるところを。確かこっち側の天井の上を何かしてた筈。
 凌はのこぎりをまたアスファルトに置いて、背伸びしてみた。見えそうだが見えない。
「政士、俺が馬になるから、上見てみてくれよ。昨日の朝おまえが言ってたチビの医者が、そこを何かして檻を開けるとこ、俺見たんだ。だよな? 姫」
 姫は曖昧に、だが確かに頷いた。
「ほらな、乗れよ」
「いいけど、重いぞ」
「死にゃしねーだろ」
 凌は膝を折って両手を地面に付いた。スニーカーを脱いだ政士が、失礼します、と何だか少しずれたことを言って凌の背中に上がる。
「ああ何かある、ネジじゃないな、ボタンかな? 二つあるけど、両方押してみるか?」
「ああ。やってみて」
 天井と同じ黒いボタンが、端から十センチずつ内側へ入った対照的な位置についている。政士は少し迷って、両手で二つ一度に押し込んだ。だが何の変化もない。
「何にもならない」
「いいんだ、降りろ」
 手のひらを払いながら立ち上がると、凌は医者がやっていたように檻の両端を持って上げてみた。
 ……開いた!!
「凌、俺こっち持つよ」
「姫、早く出てこい!」
 二人が持ち上げてできた隙間から、まず犬が飛び出してくる。感激で動けないのか、座り込んだままの姫が手を掴んで、凌は彼女を外に引っ張りだした。限りない、青空の下に。
 凌と姫の間にあるのは空気だけ。冷たい手がつながっている。隔てる物はもうない。
 凌は一瞬、そこに政士がいることを忘れた。自分を見つめる、潤んで揺れる彼女の赤い目以外に何も目に入らない。胸が痛むくらい美しい。これ以上美しいものには、きっとこの先出会えない。
 繋いでいる手に力を込めて、凌は姫を引き寄せた。彼女を思い切り抱きしめたい。細い腰に腕を回そうとして、だができなかった。
「っ!?」
 姫が凌の胸を押して抵抗したのだ。手を振り解いて、ビルの表の方へ走りだす。
「姫、っ、待てよ!」
 何で、どうして自由になれた途端に俺から逃げようとするんだ!?
 凌は姫を追いかけた。肩を掴み、解こうと暴れるのを無理やり抱きしめる。だが姫も渾身の力で凌の腕を解いて、彼を突き飛ばして。
 絶叫した。
 耳に聞こえた訳じゃない。彼女の喉からは一音も発されなかったが、手を伸ばしてもギリギリ届かない位置にいた凌にも、靴を履いていた分だけ出遅れた政士にも、草の中ではしゃいでいた犬にも聞こえただろう。彼女の心の叫びが。
 動きを止めてしまった彼らの前で、姫は凌のコートと自分の白いシャツを脱ぎ捨てた。黒いノースリーブだけになって、涙でぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆う。側に駆け寄ろうとした凌は、次の瞬間目を見開いて絶句した。
 メキメキッという嫌な音の後、まるで花が咲く様子を、ビデオの早回しで見ているように。
……彼女の背中に、真っ白な二枚の翼が広がったのだ。地面に届くほど、彼女の体をすっぽり覆ってしまえるほど、大きな翼。
「──!」
 政士が何かを言いかけて、息を吐くだけに留まった。青空に浮かぶ雲と同じ、純白の翼が、人の背中に。
 金の髪は、さながら後光。神々しくて、清々しい。眩くて、でも目が逸らせない。惹き寄せられる。
 純白の翼。
 他の誰でもなく、姫の背中に。
「姫」
 怯えないで。俺は、どこにも行かないから──側に、いるから。
 凌はそっと姫の手を取った。手のひらで、まだ泣いている彼女の頬を拭う。その燃え盛る炎。
「……天使だったんだ」
「違う」
 不意に割り込んだ知らない男の声に、びくっとして姫が凌に体をすり寄せた。背の高い中年の男が、いつの間に現れたのか、表から近づいてくる。見覚えのあるキャメルのロングコート。
 こいつだ。この男が姫を閉じ込めていた男なんだ。
 怯えてしがみついてくる姫の腰に手を回して、凌は安心させるように彼女を抱き寄せる。コートの男は二人の正面に立って、穏やかな声で言った。太陽が眩しくて、顔がよく見えない。
「私の作品だ」
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by new-chao | 2005-02-25 16:47 | 小説-Angel(完)

Angel

       ◇     ◇     ◇
    
「なるほど、彼がそのコートの色男なんだ な? 会えて嬉しいよ、モデルみたいな二枚目じゃないか」
 男は姫が脱ぎ捨てたシャツと、凌のコートを拾い上げ、後から歩いてきたよれよれの背広を着ている小男の医者に渡した。日の当たり方が変わって、顔が見やすくなる。
「クリーニングしてお返ししたいが、よろしいか?」
「必要ねーよ、返してくれ」
 男は大柄だが、辛うじて身長は自分の方が勝っていることに安堵しながら、凌は冷やかに言った。予想していたのか、そう驚いた風もなく、男は目を伏せて苦笑する。
「だそうだ、弦谷、お返ししてくれ」
 手早く畳んでコートを差し出してくる医者を無視して、凌はその男だけを見ている。加勢するように、政士が姫を挟んで隣に並んだ。
「あんた誰だ」
「私?」
 男はちらりと弦谷と呼ばれた医者に目をやって合図をすると、スーツのうちポケットに手を入れて名刺を取り出した。弦谷は凌の足元に畳んだコートを置いて、元の場所に戻った。
「表向きには、整形外科医という肩書を持ってはいるが」
 目の前に突きつけられた紙片の右上に、某医科大学理事長という文字が読めた。名前は、植村賢……まで読んだところで男が名刺を戻してしまったので、最後の一文字を見逃してしまった。
「実際は一人の研究バカな学者だ。そちらは高校の学生か? さすが私が作っただけあるな、エンジェル三号は男の趣味がいい」
「エンジェル三号?」
「そうだ、君の隣にいる女の名前だよ。それは私が作った、有翼型アンドロイドだ」
「あ、……アンドロイド!?」
 凌と政士が同時に叫んで姫を見下ろした。背中の、神がかった翼はさすがに人間とは思えないけれど、潤んだ目も、濡れた睫毛も震えてる吐息も、まるで人間と同じ。作り物だなんて思えない。
「三号を返してもらおうか、予定より翼の成長が早かったのでね。あと四時間はかかる計算だったのだが、まあいい。メンテナンスの時間だ」
 抱きしめた温もりも、手のひらに感じた強い鼓動も、すべてが偽物だなんて。あの笑顔も、胸に届いた彼女の声も作り物だなんて──そんな筈ない。
「嘘だ」
「何がだ?」
「姫がアンドロイドだなんて、嘘だ」
 これだから子供は、と言いたそうな顔で植村は首を振る。凌はじっと姫を見つめて訊いた。叩きつけるように。
「だって人間だって言ったじゃねーか!」
 姫は頷いた。何度も。
「そう思い込んでいるだけだよ、私がそのように仕込んだからだ」
「嘘つけ! アンドロイドなのに寒くて爪が変色したりするか!? 金髪が好みなら何で初めから金髪に作らないんだ、どうして黒い髪を、わざわざ金髪に染める必要があるって言うんだ!」
 凌の言葉に、ニヤニヤ笑いを浮かべていた弦谷が真面目な顔になった。植村の口許から笑みが消えた。
 引き返せない迷路に、一歩踏み込んでいる。凌には、背後でドアが閉まる音が聞こえたような気がした。
「何だよ。彼女が話せないからっていい加減なこと言うんじゃねーよ、本当のことを言ってみろ!」
 凌の後を、冷静な口調で政士が続ける。
「もしも、百歩譲って彼女があなたの作ったアンドロイドだとしても、檻に閉じ込めて風雨にさらしておく理由にはならないと思います」
「それにあんたの言うエンジェル三号は、あんたと一緒には帰りたくないみたいだぜ、植村さん」
 植村は弦谷と顔を見合わせて、渋々といった風情でコートのポケットに手を入れて肩をすくめた。
「まいったな、君たちは案外賢くて、彼女のことを良く知っているらしい」
「そうらしいですね、先生」
 甲高い声で弦谷も同意する。植村は自然に整えられた癖毛に手をやって、思案するように沈黙した。ふっと顔を上げて、姫が凌の死角になる方向を見た。
「彼らに話して、協力を頼もうか」
 植村が頭から手を離して、自分に言い聞かせるように一人で頷く。
「三号は親の私に懐かず、困っているんだ。彼女の心をどうす……」
「凌!!」
 誰かが凌の名前を呼ぶのと、姫が彼を突き飛ばすのは同時で、足音を殺して近づいていた男に犬が飛び掛かるのはその一秒後、凌がその男を見たのは地面にしりもちを着いた後だった。
 犬に食いつかれた腕を振り回している、サングラスの大男の手から弾き飛ばされたものは、一見テレビのリモコン風の黒い物だった。先端に二本の針金みたいな物が立っている。あれは、いつか映画で見た……スタンガン、だ。
「大丈夫か、凌!?」
 駆け寄って凌を助け起こしてくれたのは、何故ここにいるのかは判らないが、哲明だった。三人と植村の間に立ちはだかって、姫は二枚の翼を広げた。庇うように。
「っ、この野良犬っ!!」
 サングラスの男が犬の頭を殴ろうとするのを見て、咄嗟に凌は男にボディブローを食らわせた。落ちた凶器を、政士が爪先で草むらに蹴飛ばす。植村は耳触りのいいことを言って油断させて、後ろから用心棒に襲わせるつもりだったのだ。
「姫……姫なのか?」
 呆然とした哲明の声に、姫は植村を見たまま頷いた。翼と同じぐらい白い剥き出しの腕を、翼と同じように広げて。
「失敗しやがって。下がっていろ!」
 弦谷がサングラスの用心棒に命令して、男が植村の背後に控える。無事だった犬が姫の足元に駆け戻って尻尾を振っても、姫は動かなかった。
 ポケットに入ったままの植村の手。
 もしも拳銃が握られていたら。
「おまえは」 
 植村も動かなかった。
 ただ淋しそうな表情になって口を開いただけだ。低い声で。
「私の物なのに、逆らうのか」
 姫の顔がまた泣きそうに歪んだ。ダメ押しするように植村が鋭く言った。
「どうして私の物になったか忘れたのか!?」
「姫……!!」
 呼びかける凌をちらりと見て、姫は言葉の代わりに涙を流した。


 事情をはっきり理解させるために、話し合いの場に同席させろと言ったのは、植村だった。当時中学生だった彼女は、制服のセーラー服のまま、目眩がしそうに大きな大学の一画にある、目が眩むほど豪華な応接室に、父親と一緒に通された。清掃の時間に入った中学の校長室とは比べ物にならないほど、広くて、手入れの行き届いた家具が置かれていた。
 いつ、どんな風に父と植村が知り合ったのか、彼女は知らない。いつから植村が自分のことを、この特異な顔と、特異な力を知ったのかも。
 だが萎縮しきっている父親の隣に、雰囲気に圧倒されながら座っていた彼女にも、日本人離れしてハンサムな、しかしどことなく尊大な金持ちの中年男の提案は、すぐ理解できた。
 父が作った莫大な負債を、総て返済してやる。抵当に入れられていた家も手離さなくてもいいし、望むならもっと暮らしやすい家を与えてやろう。入院している母の医療費も負担してやる。一家の生活が軌道に乗るまでは、毎月幾ばくかの援助もする。
 ただし、長女と引き換えに。
 彼女の身柄と、今後の彼女の人生そのものを代償にもらいたい。
 彼女が小学校へ上がる前くらいから傾き始めていた父の事業が、その日どれほど逼迫していたのか、具体的な数字のことも彼女は知らない。
 父は家で仕事の話は一切しなかったし、彼女は彼女が十歳の頃に倒れてしまった母に代わって、家の中のことを総て取り仕切らねばならず、ゆっくり父と話をする余裕なんてなかったのだ。
 九歳と五歳の弟、七歳の双子と二歳の妹の五人に合わせて、自分の面倒も見なければならなかった。親戚は彼女を恐れ、借金が飛び火することを恐れ、以前はあったのかもしれない協力も、まるでなくなっていた。文字通りの孤軍奮闘だった。
 家族のために、幼い弟妹たちのために自分の総てを犠牲にして──犠牲にして。
 その彼女を、まごうかたなく我が娘を手離さなければならないほど、切羽詰まっていたのだろうか。
 おそらく大人たちの間では、もう話は決まっていたのだ。ただ植村は彼女に、見せたかっただけなのだ。
 父親が自らの手で、自分を植村に売り渡すところを。
 生きるためになら、娘を捨てられると。
 最後まで家族のために。
 金のために。
 近頃ずっと父親がよそよそしかったのは、このせいなのだ。あたしを哀れんで、自分を哀れんで、それでももうどうすることもできないから、あたしを避けることしかできずにいた。父を恨んではいない。捨てられたことを忘れはしないけれど、決して許さないけれど。
 結論だけなら、植村は恩人だ。家族を貧困と絶望の暮らしから引き上げてくれた。母の病気も快方に向かい、感謝なんていくら捧げても捧げ足りない。
 でもそれは、あたしがあいつを憎んじゃいけない理由にはならないわ。
 最後に見舞いに行った病室で、母親は胸に彼女を抱きしめて泣いた。どうしてこんなことになってしまったのかと。こんなことを望んだことは、一瞬たりともないのに。
 どうしてこんなことになったのかなんて、あたしにも判らない。
 判ってるのは一つだけ。今までも、この先も、あたしには自由なんかどこにもないってことだ。
 世界の支配者のように君臨していた植村の前ではもちろん、一旦家へ戻ってからも、父は彼女に謝らなかった。植村の運転手が彼女を迎えにきた朝まで、ついに一度も。だから彼女は父をなじれなかったし、自分のことをどう思っているのか、本当に愛してくれていたのか訊けなかった。
 あたしはあの日、あの塵一つない上品な応接室で、捨てられた。
 もうあたしの名前を呼んでくれる人も、家族もいない。あたしを好きでいてくれる人間はいない。どうせ不気味な赤い目の、呪われた念力を持つあたしが消えても、悲しんでくれる人は家族以外にはいないから。いなくなった方が、家族のためだから。
 十四歳であたしは、あの日、死んだ。
 植村の物になってからのあたしは、ずっと死んでいたんだ。
 ──あなたに、新しい名前を呼んでもらうまで。
「思い出しただろう、私がおまえと引き換えに、どんな代償を払ったか」
 傲慢な言い方。またあたしをわざと傷つけようとしてる。あたしが傷ついて、泣きじゃくって、疲れ切った頃に甘いことを囁くんだ。いつもそうだった。
 もうその手には乗らないわ。
 あたしは傷つかない。
「代償、って何だよ……!?」
 哲明が三人を代表して言う。植村は眉を動かして少年たちを一瞥して、事もなげに言った。
「金さ。彼女にかかった分も含めて、ちょうど一本だ」
「一本、って、一千万!?」
 姫は首を横に振った。桁が一つ違う。
 彼女が有翼型アンドロイドだなどというのは、凌に向かって植村が咄嗟についた嘘で、もちろん自分は元は人間だ。
 一から植村に作られた訳ではないけれど、しかしこれだけ巨大で精巧な翼を開発するには、とんでもない数の福沢諭吉が行き来したに決まってる。
「おまえの母親もその筋で権威の医者に掛からせて、完全看護の病院に移してやった。半年くらい前に退院して、今ではすっかり元気だそうだ。誰のおかげなんだ? 私はまだおまえに礼を言ってもらってないな」
 礼を言うのは父さんの役目よ、あたしにはそんな筋合いはない。
「母親や弟や妹に会いたくないか?」
 会わせるつもりもないくせに。そうやって、あたしに昔の情を思い出させて釣ろうとしても無駄よ。
 会いたいに決まってる。一番下の妹ももう小学校三年になっただろうし、みんなきっとすごく大きくなっただろう。会いたくない訳がないわ──でも、より人間離れして見えるように髪を染められて、おぞましい翼を移植された、今となっては。
 こんな姿になった今じゃ、会えない。
 会いたくない。
 あたしはもう、昔のあたしじゃないの。
「姫!」
 植村が一歩近づいて、姫は一歩後ずさった。あのポケットの中にある物が何を意味するか、判っている。植村がそれを出す前に、凌たちを逃がさなければ。
「アンドロイドだなんてやっぱり嘘なんだな、姫に何しやがったんだ! 喋れないのもてめえのせいなのか!?」
 凌が怒鳴って、植村が鼻で笑った。
 逃げなくちゃ。何処かへ。
 どうやって?
「この翼、飛べるのか?」
 独り言のように哲明が呟いた。姫は目を見開いた。
 神経に直接つながっている翼、理論上は飛べる筈だ。そのように作ったと、植村は言っていた。
「そうだ。私が声を奪ったと言ったら、どうする?」
「てめえ……!」
 飛ぶためには訓練がいると言っていたけれど、でも、あたしは。
 植村に殴りかかろうとする凌の腕を、姫は力ずくで掴んで引き止めた。
「な……っ」
 後ろ手で凌と政士の手を繋がせる。それから凌と哲明の間に後ろ向きで割り込んで、二人の手を握った。
 暖かい手。暖かい命。
 果てしない青空の下に、あたしは立ってる。凌の手を握って、立ってる。
 あたしの中に眠ってる、一度もあたしを守ってはくれなかった、力。
《愛する人のために》
 いつだって思い通りにならなかった。
《忘れないで》
 でもあなたに出会って、あたしは生まれ変わったから。
「君たちは知りすぎた」
 植村がポケットから、何も握られていない手を出す。危険を察した犬がアスファルトを蹴って政士に飛びつき、用心棒と弦谷が植村の合図に合わせて拳銃を構え、姫は全身を貫く衝動に身を委ねた。
 消音器付きの鈍い銃声と同時に。
 四人と一匹は姿を消した。
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by new-chao | 2005-02-25 16:45 | 小説-Angel(完)

Angel

6. Wishing I was lucky.

  いつか天使が降りてくる    
  誰の胸にも


 家に続く曲がり角までバス停から並んで歩いてきた凌に、じゃあまた明日な、と言いかけて、政士は息を飲んだ。もうじき外灯の光の中から出てしまうところを歩いている、女の後ろ姿。
「晶子さん!?」
 白いロングコートの裾を翻して、遠ざかりかけていた女が振り返った。
 彼女を見て、政士を見て、事情を察したらしく凌は微笑すると、じゃあなと手を振る。政士も手を上げて、晶子に駆け寄った。自分の家より三軒行き過ぎたところで追いつく。
「どうして……あ、CD届けに来てくれたのか?」
「ええ、そう」
 晶子の視線が、政士の目から喉を行ったり来たりした。いつもならまっすぐ彼を見るのに。彼に会ってしまったのを後悔して、どうしたらいいのか困っているみたいに見えた。
 そうか、会いたくはなかったのか。
「わざわざ、どうも」
 気がついてしまったら、向かい合っている必要もない。じゃあ、気をつけてと言いかけた時、不意に思いきったように晶子がはっきりと政士を見た。
「政士君、あたしね」
 走っていた訳でもないのに、晶子の胸が激しく上下している。見ている政士まで、釣られて上がってしまいそうだ。
「あたし、あの、昨日ね、……政士君がうちに、来てくれて嬉しかったの。ほ、本当よ」
 ショルダーバッグの肩紐を、ぎゅうっと握りしめた小さな手。晶子の緊張に合わせて揺れている、耳に付いたピアスには見覚えがある。彼女の誕生日に、政士が送ったイミテーションだ。
「だから、あの、だから今日はあたしが」
 着けてくれているのだ。プラスチックの、千円出せばおつりがもらえるくらいのおもちゃなのに、着けてきてくれたんだ。
「あたしの番かな、なんて、思って」
「晶子さん」
 いいよ。もういいよ。
 俺の方がガキだから、バカなことは俺が言うよ。
「俺は、……俺の方が四つ年下で、俺はまだ高校生のガキだけど、それは変えられないけど、でも俺、晶子さんにガキだと思われないようにするから」
 晶子の動悸がうつったのか、政士の心臓もこれ以上速くは打てないぐらい激しく脈打っている。誰もが知っている、原始よりのリズム。胸が震えて息が苦しいぐらいに、力強い。
 俺がこんな風になるのは。
 あなたが側にいる時だけ。
「もし俺が同い年だったとしても嫌だって言うんなら仕方ないけど、でもただ年が下なのが嫌なら」
「……じゃないわ」
 晶子の声はかすれてよく聞こえなかった。政士は一歩近づいた。手を伸ばせば届く。捕まえたら離さない。
「なんて言った?」
「……じゃ、ないって」
「え?」
 晶子の顔が真っ赤になって、泣きそうに一瞬くしゃくしゃになって──彼女は怒鳴った。まるっきり辺りを憚らずに。
「嫌いじゃないわ!!」
「晶子さん」
 政士が伸ばした手に晶子がショルダーバッグの紐から手を離して、冷えきった手のひらを預ける。丁寧にマニキュアを塗った爪の指先を、そっと包み込んで、政士は笑った。
「子供みたいだよ」
「悪かったわね」
 晶子もやっとホッとしたように笑う。照れくさそうに夜空を見上げて、また子供みたいにはしゃいだ声を上げた。
「あ、流れ星」
「本当?」
 疑わしそうな政士の口調に、晶子はむっとして拗ねてみせて、政士はますます笑う。
「本当に見えたのよ」
「はいはい、じゃあ何か幸運が舞い込むかもしれないね。──送ってく」
 手をつなぎ直して二人は歩きはじめる。この先何が待ち受けているか判らない、二人の人生の第一歩目を。二歩三歩と、確かな足取りで。
 あなたがよろけたら受け止めてあげるから、俺が転んだら起きるのを手伝ってほしい。アスファルトの上を、けもの道を、大空の下ずっと手をつないで歩いて行こう。時には迷って、遠回りするかもしれないけど。俺方向音痴だし。でもあなたが一緒なら、それもまた楽しいかな。
「バス停まででいいからね、政士君」
「はい、女王様」
「ばか」
 バス停まではほんの五分だ。
晶子に先を越される前に、政士は男らしく言った。
「期末テストが終わったら、遊びに行こう。電話する」
 じゃあ、と続きかねない政士の言い方に、晶子が上目遣いに彼を睨む。何か変なこと言ったかなと政士は首を傾げ、できたての恋人は彼の額に、ペンッと軽くツッコミを入れて笑った。
「バスが来るまで、一緒にいてくれないの?」
 十一月最後の金曜の夜。
 政士は結局、十時まで晶子のアパートにいた。

               ◇     ◇     ◇
    
 十二月の土曜日。
 誰もおらず何もない、小さな製薬会社の廃ビルの裏は、大きな音を出しても迷惑のかかる人がいないので、絶好の練習場だ。本番で踊る会場と同じぐらいの大きさにチョークで線を引いて、哲明が指に着いた粉を払う。ジーンズの尻で拭くのでそこだけ白く指の跡が着いたが、本人が気がついているかどうか。
「けど、ずるいよなあ凌、自分だけ赤点逃れやがって。抜け駆けだぞ」
 集合は十時半。他校のメンバー四人はまだ来ていない。
 小さなラジカセのアンテナを伸ばして、適当な番組に合わせながら、哲明はぼやく。第二土曜だから学校は休みだ。
「抜け駆けなんかしてねーよ、やってみたら意外と理系が得意だったってだけじゃん。テツ、三学期から政士に家庭教師頼んだらどーだ? 友達のよしみで、割引料金でいいかもしんねーぜ」
「んで、家庭教師に通ってきてるうちにイイ仲になったりして? 政士と? ぐえーっ」
 げらげらっと凌は笑った。
 放課後の練習はちょくちょく付き合ってくれるが、さすがに今日は政士も欠場だ。受験も期末テストも楽にクリアした彼は、今頃おそらく余裕でデート中だろう。最近めっきり休日に遊んでくれなくなってしまったので、何となく淋しくないこともないが。
 幸せなら、それが一番だ。
 俺も寛容になったなあ。
「政士、大会には彼女連れて応援に来るって言ってたぜ」
「マジ? 楽しみだなあ、俺、ショーコさんって見たことないんだもん。凌は見たことあるのか?」
「ちらっとな」
「美人?」
 凌は黒いハーフコートを脱いで、身軽になりながら頷いた。
 コートと、あの日彼が置きっぱなしにして帰ったバックパック中身一式は、家へ着いたら玄関の前にきちんと置いてあった。植村の仕業かもしれないと一瞬思ったが、たぶん違うだろう。飛ばしてくれたのか持ってきてくれたのかまでは判らないけれど、きっと彼女だ。
 父は凌の話を全部信じた訳ではないようだったが、一応上にも話してくれたらしい。警察でも植村をマークして、彼女を探してはくれているようだ。どれほど真剣にかは、判らないが。
 あれから彼女はどこにいるのか。まだ見つかっていない。
「ああ。ショートカットの、恰好いい感じの人だったな。ちょっと伊達公子みたいな感じで」
「ふーん」
 綺麗な女だが、彼女とは違う。あれほど美しい女には、きっともう出会えない。
 でも出会えたからいいのだ。
 すれ違って気づかないよりは、ずっといい。
「政士いいなあ、俺もクリスマスまでには何とかしたいんだけど」
「やめろよテツ、そういうの。クリスマスなんて他の日と別に変わんねーだろ、今日の方がよっぽど重要だよ。本番まで十日切っちまったんだから」
「んまあ、そうだけど」
「あいつら来るまで、俺たちんとこだけでも練習しようぜ」
「オッケイ」
「あれ、巻き戻してねーな、これ」
 哲明もダウンジャケットを脱いで、仮設舞台の中央に立つ。凌はカセットをセットして巻き戻しながら、草むらの方に目をやって声を掛けた。
「おーい、あんま草ん中走るなよ、草の実がつくからな、姫!」
 呼ばれたと思ったのか、ビルの影から茶色の犬が顔を出す。その首に、細い赤い首輪。
「なんだそこか。道路に出んなよ、危ねーから」
 テープが巻き戻ったので、凌は再生ボタンを押して自分の指定位置に立つ。踵から髪の先まで染みついたリズムに、膝が勝手にビートを刻みだす。
 ボーカルが始まると同時に、伏せていた顔を起こして天を仰ぎ、その途端哲明が素っ頓狂な声を上げた。
「あっ!」
 澄み渡る青空を指さす。凌も釣られてそっちを見た。
「流れ星だ」
「は?」
 凌はため息を着きながらカセットを止めにいく。
「おまえ、そりゃ赤点取るさ、朝の十時に流れ星が見えるかっつーの。よそ見してんじゃねえよ、もう一回頭からな」
 同じ曲の同じリズムに合わせて身を起こし、顔を上げる。今度は何も見えなかったらしく、哲明は黙ったままだった。手を振り、足を上げ、膝を着いて肩をそびやかし、髪を振り乱して空に指を伸ばした時。
 チカ、と一瞬何かが輝いた。
 流れ星じゃないのは火を見るより明らかだ。UFOの筈はないし、たぶん飛行機だろう。
 でももしかしたら。
 思うのは俺の勝手だろう。一瞬の想像で幸せになれちまうんだから。
「凌、どうかしたのか?」
 急に笑いだした凌を、哲明が不審そうに振り返る。凌は何でもねーよと答え、それでもまだ笑っていた。わおん、と一言、敷地のどこかで姫が吠える。彼女も今の光を見たのだろう。
 心地いいリズム。息が弾んでちょっと筋肉痛気味だが、中学生の時、文化祭で味わった快感を凌は思い出した。楽しい。楽しんでいる。
 でも、もしかしたら、あの光は。
 もしかしたら。
 


  
                                                  Fine
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by new-chao | 2005-02-25 16:33 | 小説-Angel(完)

Angel

『 A n g e l 』 あとがき

という訳で、ご愛読ありがとうございました。
こんにちは、チャオです。
あ、それはもう知ってますね。でもいつもこういう風に書いてたんで、なんかこう書かないと落ち着きません。
この小説の第一稿が上がったのは、なんと1997年でした。いつの話だ。んでここに掲載したものには2000年版と書いてあったので、2000年に1回書き直したやつなんですね。んでももう5年も前じゃん。そんなにたったとは思えませんね~。
これはねー、書いててめちゃくちゃ楽しかった記憶がありますね!
籠の鳥のお姫様と王子様の話、というコンセプトでどうしても書きたくなって、できた話がこれです。
恋人は檻の中。
いいじゃないですか、究極にプラトニックで。
あたしがやりたいという意味じゃないですよ、あくまでモチーフとしてですけどね。
凌と哲と政士の関係はいいんだけど、とは言いつつネタとしては「没。」と言われてしまったので、出版には至りませんでしたが、未だに何がいけないのかよく判らんです。
誰も言わないので自分で言っちゃうけど、あたしこの話、大好きなの。
読むときは自分が書いたということを忘れる得な(アホな?)性格なので、その点ではすごく幸せですね、あたしは。
それでは、短いですがこの辺で。
本文が充分長いから、いいか?
また次の小説で、あなたにお目にかかれることを願いつつ。

2005.02.25                             
                                      チャオ
あなたへ  
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by new-chao | 2005-02-25 16:13 | 小説-Angel(完)