カテゴリ:小説-Angel(4)( 5 )

Angel

  4. 二人を隔てるもの

「のこぎり取りに行ってくる」
 いつの間にか朝になっていた。
 凌が立ち上がると、合わせたように檻の中の犬も立って体を伸ばした。ブルブルッと全身を震わせて、甘えるように姫の手に鼻を押しつける。
 そのボリュームのある尻尾から、どうやら生粋の柴犬ではないらしいことを見て取ると、凌はもう一度腕時計に目をやった。
 針は八時を過ぎている。今から戻れば、家族は全員出勤して家は空っぽだ。のこぎりを取りに帰ろうが、着替えをしようが、親父の貯金通帳と印鑑を探そうが、やり放題だ。
「ついでに何か、欲しい物があったら持ってくるけど……ああそうだ、ウォークマンとか、ゲームボーイがあったら暇つぶしになるな」
 どうして気がつかなかったんだ、と独り言を洩らした彼の手を、そっと姫が掴んで首を振った。
「いらないのか?」
 頷く。朝日に金の髪が眩しい。
「じゃあ……カイロ、もっと買ってくる。ああそれより手袋の方が先だな、靴下とか、……抜けてんな、俺」
 姫は目を伏せて苦笑すると、握った手に力を込めた。光が当たっている時の彼女の目は、沈んでいく太陽と同じ色だ。
「じゃあ、行ってくる。すぐ戻るから待ってろ」
 姫の目に心配そうな雰囲気が見えて、凌も細い指を握り返してやる。すぐ戻ってきて。声が、聞こえるような気がして。
「すぐだ」
 一度握ってしまうと、解くのには勇気がいる。凌は離れたがらない指を離して、犬の頭を撫でてから檻を離れた。
 いつ眠ったか覚えていない。
 姫と背中合わせに、檻越しに座って遠くの星を眺めて、ぼんやり考えて、時々思い出したように独り言みたいに話して、こんなところで制服のまま寝たら凍死すると思いながら……気がついたらすっかり朝だった。
 気が付けば、肩からすっぽり雨よけカバーを被って、アスファルトに転がっていた。寝ている間に姫が掛けてくれて、その後地面に寝てしまったらしい。檻の中の姫はわざとらしく胡座をかいて、にやにやしながら、凌の寝惚け顔を見つめていた。
 どうして真夜中にこんなところに来たのとか、学校に行かなくていいのとか。姫はそんな当たり前の、俺が答えたくない鬱陶しいことを尋ねない。聞きたくないことを言わない。ただ案ずるように見るだけ。だから話してしまう。
 凌は寝不足なわりには軽やかな足取りで敷地を抜けて、バイクのところまで戻った。ポケットのキーを差し込んで、ヘルメットを取り上げた時。
「やっぱりここにいたのか」
 背後からの声にびっくりはしたが、ヘルメットは落とさずに済んだ。
「どこに行くんだ? 学校か?」
「冗談だろ」
 凌は振り返って相手を見下ろした。
「なんで政士が俺を探すんだ?」
「おまえのお母さんから電話が掛かってきたからだ、一晩帰ってこないから、俺のところにいるのかって。俺は後で面倒に巻き込まれるのは嫌だから、来てないって本当のことを言ったよ」
「それで?」
「それで、って? それに対してお母さんがなんて言ったか? そんなことおまえに関係ないだろう」
 怒りが頭蓋骨をぶち割りそうになって、代わりに凌はヘルメットをシートに下ろした。
 しごくもっともな返事だ。俺には関係ない。
「嘘だよ、俺のとこにいるって言った。だから探しにきたんだ」
「そりゃご苦労さん、ついでにおまえの言うところのヤク中女に会って来いよ」
「凌、あのな」
「うつるといけないからやめとくか? 別にどっちでも俺はいいけど、早くしないとおまえが遅刻するぜ」
 政士は一歩凌に近づいた。バイクを挟んで、一歩踏み込めば殴れる距離だ。一緒に学校へ行こう、と彼が言うのを先じて凌は言った。
「俺は今日は行かねーよ、一人で行ってくれ」
「どうして」
「姫が待ってる」
 答えた途端、政士が切って捨てるように言った。
「あの子はやめろ」
 凌は頭を振りながらため息をついた。こういうことを言い出すだろうから、会いたくなかったのだ。
「おまえのためを思って言ってんだぞ、あの子のことは忘れて学校へ行くんだ」
「俺のため!?」
 どいつもこいつも、人を上辺でしか見やしねえ。本当のことなんて何も判りはしないくせに、見た目だけで、一つのパターンに当てはめようとする。俺のことも、彼女のことも。
「俺にまで恩売ってどうするんだ、政士。そうやっておまえまで、俺にどんな見返りを欲しがってるんだ!?」
「そんなこと言ってないだろう」
 凌の激昂とは反対に政士は冷静で、揃えた前髪の下から揺るがさずに彼を見返す。
「どうしたんだよ、あの子のことで何か判ってることがあるのか? 姫がおまえを待ってるとは限らないし、今までおまえは、誰のことも散々待たせてたじゃないか。姫と会ってから、おまえおかしいぞ」
 判らない。姫のことは何も知らない。
 でも彼女は俺を待ってる。
 でも彼女の目が俺を──。
「俺のことなんかほっとけよ、それより自分のことを考えたらどうなんだ?」
 ふと足元を何かが触って、見ると檻の中にいた犬だった。それを見たら、少し頭に昇っていた血が下がった。
「受験も終わって、やっと余裕ができたんだろう。せっかくの利口な頭を他人でバカな俺のことになんか使ってねーで、自分のことに使えよ。たとえば、あの、年上の家庭教師のこととか、いろいろあるだろ?」
 政士が目を逸らした。
 言いすぎたと思ったけれど、もう後の祭だ。言ってしまったことは戻せない。
 凌は俯きたくなる衝動を、ヘルメットを被ることでごまかした。
「政士」
 返事はない。
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by NEW-CHAO | 2005-02-18 17:26 | 小説-Angel(4)

Angel

 本当に気に障ることを言ったらしいと、凌はちょっとだけ後悔する。
 だけど先に俺の神経を逆撫でしまくったのはそっちじゃないか、謝らないからな、俺は。謝らない。
「悪いけど、俺はもう行くから。遅刻したくなかったらおまえも走ってけよ、って、関係ねえか」
 政士は答えない。
 凌は彼を見ないようにしてエンジンを掛けると、スタンドを外してバイクに乗った。
「じゃ……」
 じゃあなと言うために顔を上げた時には、政士はもう歩き出していた。一瞬むかっとしたけれど、いつもの政士らしくない下向き加減な歩き方に、苛立ちが萎んでいく。凌は一度思い切りエンジンをふかすと、政士を視界から追い出して彼の横を走り抜け、ろくに左右も確かめないで角を曲がった。
 ……帰ってみた家は思った通り誰もおらず、しんと静まり返って、他人の家みたいによそよそしかった。留守なのだから足音を殺す必要もないのだが、つい静かに歩いてしまう。
 一旦部屋に上がってタートルネックの黒いセーターとジーンズに着替え、ついでにまだ履いたことのない靴下を探していると、何故か昔のことを思い出した。
 小学生の頃のことだ。熱を出して学校を休んだ日。
 両親は今と同じ共働きで仕事に行き、四つ年の離れた姉も中学校に行ってしまって、自分は平日の昼間、一人きりで寝ていた。家はもちろん、隣近所もみんな仕事や学校に行って留守なので、静かで、通りかかる車もなく、世界中で自分はたった一人みたいな気がしたものだ。その日に配られたプリントと、給食で出たデザートのヨーグルトか何かを哲明が届けてきてくれるまで、一日がものすごく長かった。永遠に続くかと思われるぐらいに。
なんでこんな時に、ガキの頃のことなんか思い出してんだ。平日の朝九時前に家にいるのなんて久しぶりだからか。
 凌は教科書を床にぶちまけて空にしたバックパックに、のこぎりと手袋と新品の靴下三足組と、買い置きの使い捨てカイロお徳用をビニール袋のまま入れて、それから台所に行って五百ミリのミネラルウォーターと、おそらく姉の食べ残しだろうジャムを塗ったトーストをラップで包んでから入れた。自分で食べるつもりなのではなく、あの犬にやろうと思ったのだ。凌は朝は食べない。
 タンスから、去年買ったがまだ二回ぐらいしか着ていなかった焦げ茶色のブルゾンを出すと、凌は玄関から堂々と家を出た。羽織ってみると何となくナフタリン臭いが、バイクに乗れば風で消えるだろう。
 風邪で二日も続けて休んだ時は、政士が必ず遊びにきてくれた。給食の冷凍みかんとか、彼の母親が趣味で作ったマドレーヌなんかを持って、凌の家の誰かが帰ってくるまで、家にいてくれた。宿題代わりにやってと言う凌に、それは自分でやらなきゃ駄目と、小学生のくせにやけに大人みたいな言い方で言って。今と変わらずに。
 でも俺は──謝らないからな、今日は。
 登校時間はとっくに過ぎているので、歩行者はほとんど誰もいない道を、制限速度はお構いなしに飛ばす。八つ当たりなのも、政士が正しいことも判ってる。ただ一点を除いては。
彼女と係わり合いにならない、なんて、今更そんなことができるか。こっちが勝手に彼女を出してやるって約束したのに、また勝手にもうやめた、なんてそんな無責任なこと。彼女は待ってるのに。
 いや、責任とか、そんなことじゃない。姫のためじゃない。俺のためだ。
 俺が、姫に会いたいから。
 力一杯握りしめていたスロットルから手を離して、凌はビルに続く角を曲がった。先刻までと何かが違う感じがして、スピードを落として進み……気がついた。表に渡してあった、侵入者を防ぐチェーンが外れているのだ。
 誰かがいる。
 凌はエンジンを切って、一見腐った無人の長屋の脇にバイクを停めると、足音を立てないようにビルの敷地に入って、壁に体を沿わせて裏に近づいた。檻のすぐ側に停められた、白い車の尻が見える。デカさから見て、国産車ではないだろう。
 雑草の上に膝を着いて、壁からそっと目だけを出して見た。何してやがる、と飛び出して行って怒鳴りつけたい気もするが、それをやると姫の立場が悪くなるかもしれない。
 汚らしい革靴が、まず目に入った。その上に限りなく無個性なグレーのズボン、よれよれの白衣、背中を向けているので顔は判らないが、だらしなく伸びた白髪まじりの髪。
 政士の言っていた医者風の男とは、この男のことだろう。
 思いっきり小柄だ。姫より背が低いのではないだろうか。男のすぐ横に、三段ぐらいの小さな脚立が広げておいてある。
 男は脚立の一番上まで上がると、檻の屋根の部分に手を伸ばして何かをした。それから降りてきて、檻の短い方の面の両端に当たる棒を掴む。男の右手が掴んでいるのは、凌が切ろうとしているのと同じ棒だが、男がそれに気がついているかどうかは判らない。
 男が棒を持ち上げると、その面全体が五十センチぐらい持ち上がった。ちょうど鳥籠の餌を入れる時に使う、上下に動く窓の用に。
 姫は開いた隙間から外へ出て、一瞬ギョッとしたように顔を強張らせた。
 凌と目が合ったのだ。男がこっちを見るまでの二秒間に、姫はあっちへ行ってと目顔で訴えた。凌は顔を引っ込めた。
 バイクのところへ戻ってしばらく待ってみたが、車の来る気配はない。凌は諦めてヘルメットを被った。
 あんな小さな中年男の一人ぐらい、すぐぶちのめしてやれるのに。きっと姫自身でだってできる筈だ。檻を開けてる時なら隙だらけだし、助手を連れてきている訳でもない。一対一、俺が負ける筈ない。
 なのにどうして、おとなしく言われた通りにしてるんだ。
 判らないことばかりだ。姫のことも……自分のことも。
 俺はどこへ行けばいい?
 凌はバイクにまたがってエンジンを掛けた。答えてくれる相手はどこにもいなかった。


 喉の内側がカサついて、頭にレースのカーテンがかぶさっているような気がする。この状態を別の言葉で言うと何か?
 風邪の引き始め、だわ。
 弦谷の用意した脚立を椅子がわりに腰掛けて、姫は少し熱っぽい息をついた。凌のコートも、昨日取り替えた白い綿シャツも脱いでいるのに、思ったほど寒くないのは熱のせいか。
 シャツの中に着ている黒い服は、前から見ればただのハイネックのノースリーブだが、実は後ろが首の下から背中の四分の三まで空いているので、シャツを脱いでしまうと背中はほとんど裸だ。
 脂っぽい指が背中に触れて、嫌悪感に姫は体をもぞっと動かした。ごついけれど優しい凌の指と、弦谷の指はまるで違う。この二人を、同じ『男』という種類だと思わなければならないとは。
「順調ですね、明日の午後には完全に元の通り、美しい姿が復元できそうですよ。あなたは回復力の強い、いい実験体です」
 この男の、この時々裏返ったような声が嫌い。
 一言一言の終わりに、人をバカにして笑うのを我慢しきれなかったみたいな、不快な息を吐く喋り方も嫌い。空はこんなに爽やかに晴れているのに、ここだけ梅雨時の地下室のようにじっとり湿っている感じがして、気持ちが悪くなる。
「もうここへ来て四日ですねえ、そろそろお部屋へ戻りたいんじゃありませんか」
 慇懃無礼というのは、こういう話し方のことを言うのだ。凌たちの話すのを聞いた今では、あんまり厭味で癪に触る。嫌いだ。
「いや、でもこの様子では後ろ髪を引かれて帰るに帰れませんか? このコートの相手がいれば、吹雪の中でも燃えるんでしょうねえ、本当、若いことはすばらしい」
 弦谷は姫の肩に手を置いて、不精髭の口を耳にくっつかんばかりに寄せた。
「微熱が出てますよ、体はまだ昨夜の余韻に浸っているらしいですね」
 いやらしい言葉。わざと傷つけようとしているのに違いない。
 姫は弦谷の手を思い切り振り払った。植村以上に、この変質者になんて触られたくない。
 嫌いよ、大っ嫌いだわ。
 声さえ出せれば、汚い手であたしに触るなって怒鳴ってやるのに。人の体だけじゃなくて、心まで切り刻んで面白がってる。魂まで病んでるのはこの男の方よ。
「檻を挟んで愛し合うなんて、どうやってやるのか、技を教えてほしいぐらいです」
 乱暴に手を振り払われても気にする風もなく、弦谷は今度ははっきり声に出して、ケケケと笑った。姫は脚立を蹴るようにして立ち上がるとシャツを着て、凌のコートを袖を通した。このコートを着ていると、彼に抱かれているようで安心できる。何があっても対抗してみせると、思える。
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by NEW-CHAO | 2005-02-18 17:22 | 小説-Angel(4)

Angel

「植村先生の大事なあなたに、肺炎でも起こされては大変ですから、研究所に戻って薬品を持ってきましょう。注射の方が私は楽しいですが、あなたの希望は? ああ、注射の方がいい。そうですか。医者に合わせてくれるとは、いい患者だ」
 弦谷は一人で言って満足げに目を細めると、車の助手席から食事の入ったバスケットを出して差し出した。ハンガーストライキは三年前、たったの四日で失敗した。
「では直ちに行ってきます。あなたは中へどうぞ」
 言われた通り、姫は檻に戻った。中でも外でも逃げられないのは同じことだ。今更じたばたしても始まらない。
 弦谷は檻を閉じて、水分の少なそうな髪を片手で抑えると、姫に向かって不気味にウインクをしてみせた。
「あなたはそうしてる方がお似合いです」
 姫はバスケットごとぶつけてやろうかと思ったがしなかった。無駄なのだ。たとえぶつけられたとしても、奴は何とも思うまい。
 弦谷が車に乗り込んで去って行く。姫は檻を握りしめて、事故に遭えと祈った。あんな奴の顔なんて、もう二度と見たくない。
 どうか檻よ壊れろと念じたけれど、一ミリたりとも動きはしなかった。姫は座り込んで手で顔を覆った。
 植村はわざとやってるんだ。わざと毎日、他の研究員じゃなくて弦谷を寄越して、あいつのせいであたしの神経が弱るのを、期待してるのに決まってる。弦谷なんか、気配を感じるのも嫌、生理的に気持ちが悪いって、知っててやってるんだわ。
 ため息をついて、手を離す。視界に入る自分の金髪から、彼女は目を逸らした。
 植村も嫌いだ、自分をこんな風にして閉じ込めて、絶対に一生許さない。許さないけど。
 でももし植村がいなくなったら。あたしはどうすればいい?
 こんな、人間とは思えない姿に変えられて、その上口をきくこともできないのに。
 姫は手のひらで顔から喉をなぞった。
 指で触ると、盛り上がった傷痕が判る。この傷痕は醜いあたしの体の中で、何番目におぞましいのだろう。見たことはないので想像するしかない。
 口のきけないあたしの言葉を、あの男はいつも的確に理解する。思ったことが聞こえるみたいに、あたしの瞬き一つで理解する。そして言うんだ、言葉じゃなくて目で、尊大に。私が必要だろう、と。
 あんたなんか要らないわ。でもあんたがいないと……困る。
 不意に、ビシッ、という嫌な音が響いた。姫は驚いて、音のした廃ビルを見上げた。
 窓ガラスに、ひびが入っている。
 姫は安心したような、ガッカリしたような、自分でも判らないまま笑った。ひびを入れたのは自分だ、そんなこと判ってる。
 どうせならちゃんと割れていれば良かったのに。そしたら破片で、首を切って死んでやれる。今度こそ、本当に。植村には止められない。
 ──本当に?
夜中に、恐ろしい夢の飛び起きると、いつも植村が側にいた。刃物を持った男や気味の悪い化け物に追いかけられて、泣きながら上げた悲鳴が聞こえたみたいに、いつも、ベッドの脇であたしを見つめていた。高熱に浮かされて夢と現の間を行き来していた時も、若い研究生に暴力を振るわれて痛くて眠れなかった時も、気がつけば側に。
 穏やかな闇の瞳。何もかも包み込む、大宇宙の色。
『泣くな、私が側にいるから。私は誰よりもおまえを守るぞ、おまえは私の、……私の物だから』
 まるで父親みたいに優しい声で。
 手を握って。
 ──最初の晩の凌も同じ。
 姫はきつく目を閉じて、考えを追い払おうとするように頭を振った。
 植村は自分を、自分とこの眠る力を利用したいだけなのだ。凌と同じなんかじゃない。全然違う。凌は特別だ、凌のことだけ考えればいい。
 本当に、今、ここにナイフがあったら、あたしは死ねるのだろうか。あたしはもう知ってるのに。あの人のことを。
 優しい腕、あの人の温もり。あたしを恐れなかったあの人。
 あの人に出会ってしまったのに。
 姫は目を開いた。そこには誰もいなかったけれど、凌の姿が、見える気がした。彼を見たかった。
 また戻ってきてくれるだろうか、ここへ。そんなこと望んじゃいけない。あの人を巻き込んじゃいけない、あたしは彼を守れない。もう来ないでと伝えなくちゃいけないのは判ってる。
 でも会いたい。
 あなたの声が聞きたい。もう一度あたしに触れて欲しい。どうかもう一度。
 もう一度あたしを呼んで。
 ピィ、と細い声に姫は顔を上げた。どこから拾ってきたのか、あの犬が古いサンダルを片方くわえて尻尾を振っている。もしかして自分に履かせるために、探してきてくれたのか。
 凌だけじゃないわ、この子もいる。あたしを恐れない。温かい。
 おいで。
 姫はバスケットの蓋を開いて、犬に手招きをした。犬はポロッとくわえていたサンダルを落として、檻の中へ入ってくる。姫は口に手を当てて小さく咳をした。

               ◇     ◇     ◇

 教室移動で廊下を歩いている時、政士は偶然哲明に会った。
 例の、ダンスチームを組んでいる他校の仲間と夕方から会うことになった、と言っていたので、姫のところに作業に行くのは中止だ。正直言ってホッとした。彼にももうこれ以上、あの謎の少女とは係わって欲しくない。
 凌の奴、もうさぼるなよって散々担任に言われてんのにさ、やべえよあいつ。
 江藤が言うと、全然深刻そうに聞こえないから不思議だな。
 哲明の言い方を思い出して、歩道を歩いていた政士は少し笑った。信号待ちをしていた車が、彼に向かって遠慮なく排気ガスを吹き掛けて、政士が睨む間もなく、青に変わった途端にすっ飛んで発進する。
 我に返って、自分がどこにいるのか考えたら後悔しそう。だからこのまんま、勢いのあるうちに行ってしまおう。後戻りしたら二度と来られなくなる。
 住所は知っていたけれど、来てみたのは初めてだ。曲がる角を間違えて、たっぷり十五分は迷ってしまった。道に詳しい凌が一緒だったらこんなことにはならなかっただろうが、後の祭だ。自分の方向音痴は体の一部だと諦めるしかない。
 俺が謝らないといけないのか? 俺の方が大人だし?
 ポケットに入れてきたメモの数字と、すぐ脇の家の住所を確かめて政士は頷く。今度は間違ってない。もう少しだ。
 近くに公園でもあるのか、子供の声がする。呼びかける母親の声。授業が終わった後、クラスメートにせがまれて、過去のセンター入試問題集を一緒に解いたりしていたので、もうそろそろ子供は夕食の時間だ。凌は家へ帰っただろうか。それともまだあの子のところにいるのか。喋れないあの子と、一日。家を飛び出して。
 家を飛び出して、か。
 アスファルトに散らばった、ガラスの破片を跨ぐ。事故でもあったのだろうか。
 利口なやり方だとは思わないけれど、バカだとも思わない。俺にはできないことだ。親と喧嘩して家を出るなんて、はっきり自分のやり方を見せつけるようなことは。
 ここにいる俺は、親の言うことを聞いて、子供の頃からそれなりの成績を取り続け、期待を裏切らずにそこそこの大学に合格してみせて、……本当にしたいことを言い出せずにいる男、だ。もう十八年も、そんな風に生きてきた。
 それが間違ってるとは、思わないけど。
 政士は夕焼けの見知らぬ街を見回した。この辺りにある筈なのだが……ああ、あれか。
 前方に二階建ての、小さいがきれいなアパートが見える。白い壁にグレーの文字。メモしてきたのと同じ名前だ。とうとう着いてしまった。彼女の家に。
 ──自分のことを考えたらどうなんだ?
 考えたらまたスイッチを切ってしまうから、来たんだ。考えるのをやめて、ここへ。
 子供にはそろそろ夜だが、大人にはまだ早い時間だ。留守かもしれない。留守だといいな、と一瞬思ったけれど、その考えを振り払うように気合を入れて階段を登った。一人暮らしの彼女は、二階の一番東の部屋に住んでいる。
 十三段目を両足で越えて、深呼吸。アルファベットで書かれた表札を確かめて、政士はドアチャイムを押した。オーソドックスな音が、玄関の内側で反響しているのが聞こえる。
 朝、凌に彼女のことを言われてからずっと、授業も上の空で、会って謝ろうと思っていた。入試の面接の時よりもここで待っている今の方が、百倍緊張している。勢いだけで二つ離れた街まで来たのはいいが、未練たらしく思われるんじゃないか、しつこいと鬱陶しがられるんじゃないか……ああもう、考えるのはやめよう。ここまで来てしまったのだから、仕方ないじゃないか。
 ……やっぱり留守か。
 もう一度チャイムを鳴らしてみたけれど、反応はなかった。勢い込んでいた分だけガッカリして、少し安心もして、政士は玄関を離れた。書き置きしようかとも思ったが、どう書いたらいいか判らない。どこかの家からカレーライスの匂いが漂ってきた。
 腹減ったな。留守なら仕方ない、もう帰ろう。きっと、縁がないんだ。
 政士が十三階段を降りて駅の方に足を向けた時、ちょうど階段を登ろうと歩いてきた人と、ぶつかりそうになってしまった。
「あっ、すいません」
「ごめんなさ……政士君?」
「え」
 びっくりした政士は一歩後ずさってしまった。
 白いロングコートにスーパーのビニールの袋を持って立っているのは、彼が会いに来た張本人だった。
「どうしたの、こんなところで。あたしの家よく判ったね、何か用事? あ、CD取りに来てくれちゃったのかな、そうよね」
 一度勢いが落ちてしまった後に、同じテンションに戻すのは難しい。何をしにここへ来たのか忘れてしまう。
「すぐ取ってくるわ、待ってて。じゃなくて……上がってく?」
 顔を覗き込むようにして晶子に言われた一言に、やっと政士は目的を思い出した。首を横に振る。
「そう」
 手に下げた袋が重そうだ。牛乳のパックと、丸い影はグレープフルーツらしい。
 もしも彼女の部屋に上がって、一緒に晩御飯を食べられたら、どんなにいいだろう。
「あ、これ? 急に食べたくなってね、買いに行ったら何かいろいろ特価だったから、他のも買っちゃったの。あたし結構、まめに自炊してるのよ」
 でも自分が男であり続けるように、二人の年の差は縮まらない。
「晶、天堂さん、俺、謝りに来たんだ」
 カールさせていないので、いつもより幼く見える前髪の下から、化粧気のない目が政士を見上げている。逸らしたくなる彼の目が逃げられないように、しっかり捕まえている。
「昨日は、変なこと言って」
 政士は勇気を振り起こして言った。言ったからといって何が変わる訳でもないけれど、これ以上悪くはならない。
「すいませんでした」
 これでここへ来た目的は果たした。もう言うことなんてない。
 会いたかっただけだ。何か理由を作って、彼女に会いに来たかった。会いたかった。
「じゃ、あの……さよなら」
「政士君、何かあったの?」
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by NEW-CHAO | 2005-02-18 17:16 | 小説-Angel(4)

Angel

 言葉と同時に、袖口を掴んで引き止められていた。喉の奥が細くなったような気がして、政士は唾を飲み込んだ。
 臆せずに、自分を見つめる慈悲の瞳。家庭教師として彼女を信頼していた、それが恋に変わったのはいつだろう。いつから特別に。
「別に、何も」
 親にも話していない夢を、打ち明けてしまうほど。
「そう?」
 晶子はぱっと手を離した。思わず掴んでしまったのを恥じるように。
 幼なじみと喧嘩したのだと打ち明けたら、彼女は何と言うだろうか。反応を知りたかったけれど、自分たちはもうそんなことを気軽に話せる関係ではないのだ。友達じゃない。友達にはなれない。
「本当に何でもないよ」
 落ち込みそうになって、政士は無理に笑ってみせた。
「それならいいけど」
 ホッとしたように、晶子も笑顔になる。大人っぽいのに爽やかで、見つめたら動けなくなった。
 何も塗っていないように見えるベージュ色の唇、くっきりと大きな瞳。すごい美人という訳ではないけれど、気取ってなくて温かみがある。いい顔だ。
 一秒か、一分か。
 どこかで車のクラクションが響くまで、政士は晶子を見つめていた。もう少しで言ってしまうところだった。答えはとっくに聞いているのに。
「じゃあ、これで」
「あ、うん。気をつけてね」
「うん」
 政士は二本揃えた指を額に当てて敬礼すると、思い切って歩きだす。
「政士君」
 階段の途中で振り返って、晶子が呼び止める。政士は歩道で立ち止まった。彼女は何かを言おうと口を開いて、息を吸い込んで、だが黙ったまま彼を見つめている。
「……天堂さん?」
 政士の声にはっと我に返り、晶子はスーパーの袋に手を入れて中から一つグレープフルーツを取り出すと、ふわりと投げて寄越した。正確なピッチング。そう言えばソフトボール部だったと言っていた。
「ありがとう」
 晶子は子供のように手を振ると、部屋へ戻って行った。政士はその姿が見えなくなるまで、そこで見送っていた。


 ほとんど真っ暗な部屋の床にスーパーの袋を下ろして、晶子はヒーターのスイッチを入れた。六畳二間の小さな、だが一人で暮らすには充分すぎるほど広い部屋。寒い。
 やっぱり上がって、お茶でも飲んでいってもらえば良かった。定期券の使えない方角に、わざわざ来てくれたのに。
 入試が済んだら奢る、という約束もまだ果たさないうちに、家庭教師に行く必要がなくなって、会えなくなってしまった。外で会う約束でもしない限り、会うことなんてないのだから、食事ぐらいしていって欲しかった。政士は断ったかもしれないけれど。
 でも会いに来てくれた。
 はっ、と晶子はキッチンに向きかけていた足を止めた。CDがある。借りていた二枚、今追いかければまだ追いつける。──もう一度会える。
 でも返しちゃったら、会いに行く口実がなくなるわ。
 何言ってるのよ、言えばいいじゃないの、あの人がわざわざ家まで来てくれたんだから。今すぐ追いかければ、きっとまだ間に合うから、言うんなら今、思い切って今言ってしまえば──……でも先刻は言えなかった。
 晶子はCDに指を伸ばしかけていた手を止めた。
 言おうとしたのだ。
 帰っていく政士の背中を見ていたら、今しかないと思えて、だから本当の気持ちを言ってしまおうとは思った。思ったけれど。勇気を振り絞って、一世一代のつもりで呼びかけたけれど、振り向いた彼を見たら。
 言えないわ。だってあたしは、政士君より四つも年上だもの。四つも。あたしが高一の時に、あの人はまだ小学生だったのよ。この差は大きすぎるわよ。あたしとあの人が逆だったら良かったのに。そうしたらあたしは、きっと何も迷わずに……。
 その時電話が鳴った。晶子は雷に打たれたように体を震わせた。
 でもそれが現実だわ、逆だったら良かったけど、でもそうじゃなかった。あたしはあの人より四つ年上の二十二歳、ハタチもとっくに越えちゃったけど、だからあの人のことを嫌いなの? 嫌いじゃない。嫌いじゃないわ。
 晶子はCDも持たずに、電話も無視して玄関を飛び出した。サンダルを突っかけて、階段を駆け降りる。
 今、彼に追いつけたら、今度こそ言うんだ、勇気を出すんだ、あの人にあたしの気持ちを話すんだ。付き合ってくれって言われて、びっくりはしたけど嬉しかったって、もう会えなくなると思ったら淋しかったって、今度こそ……!
「きゃっ」
 踵が滑った。晶子は思い切りアスファルトで擦り剥いてしまった。幸い誰もいなかったので、笑われずに済んだけれど、手を差し延べてくれる人もいない。
 政士もいない。
「痛ったあい」
 晶子は手のひらに刺さったアスファルトを払って、ため息をついた。
 何やってるんだろう、あたし。
 冬の星空の下で一人、道路に座り込んで。いい年の女が、一体何を。
 泣きそうになって晶子は目を擦った。鼻がツンとして痛かった。擦り剥いた傷よりもずっと。

              ◇     ◇     ◇

 毎日が同じことの繰り返し。
 この積み重ねの先に、何があるかなんて判らない。
 ただ決められた道順に従って歩いて行くだけなら、前進することにどんな意味があるのか。みんな同じ型に流し込まれて、同じ中身のないゼリーみたいに固められて、それでも歩き続けていく理由を、尋ねたら叱られる。疑問に思ってはいけない。何も考えないで、疑わないで、前だけ向いていればいい。
 でも。一つしか選べない、みんなと同じものしか選べないのに、どうやって自分だけの道を進めばいいの。見えない鎖に縛られて、逃れることも叶わないで、自分の意志では指一本動かせないのに。
 今日もまた日が暮れる。また一日。
 生きている。でも一体、誰のための人生なの?


 ついてない。
 大体ついてないと言えば、朝から、あの小汚い医者風の男がいて、姫の檻を切れなかったことからしてそうだ。彼女の側にいられないなら、俺はどこにいればいいんだ。
 凌は一日中街をさまよった。
 じっとしていると気が急いて、いてもたってもいられないのだ。何かしなければいけないのに、何もできない。責められているような気がして、走っていなければ落ち着かない。途中で半分目を閉じて運転していることに気がついて、背筋が凍りついた。眠い。
 どうするか少し考えて、凌は市立図書館へ足を向けた。あそこなら暖房が入っているし、ついでに無料だ。いびきをかかなければ、寝ていても文句は言われないだろう。
 図書館は定年して暇ができた中年おやじや、子供連れの母親で案外混んでいた。
 凌は浪人生たちが使っている机のあるコーナーへ行って、運良く空いていた日の当たる席に座って突っ伏した。隣で辞書を広げていた学生風の男がちらりと凌を見たけれど、何も言わずに勉強に戻る。他の利用者の邪魔をしなければ、本を読もうが寝ようが勝手だ。
 ここにいるこいつら、みんな浪人生ってことはないだろうけど、一体何のために勉強何かしてるんだろう。それとも別に、目的なんてないのか。ただ何となく時代に合わせてるだけ。俺と同じ。逆らうのも面倒臭い。
 説明するのも面倒臭い。考えるのも。
 ──夢を見ることも。
 凌は昼前から閉館まで図書館で眠っていた。一瞬の長い夢を見ていた。固い机を枕に、時々誰かが消しゴムをかけて机が揺れるのにも、目覚める気配もなく。
 夢の中で、凌はディズニーランドのパレードを見ていた。
 白雪姫の恰好をしたチエリやシンデレラのクラスメート、アリスとトランプの女王様になった名前も知らない女や、アラジンの哲明とチャーミング王子の政士に続いて、姫は大きな鳥籠に入れられて出てきた。彼女だけは首に鉄の首輪がはめられていて鎖でつながれて、観客に手を振るのが精一杯だった。
 身動きできないほど密集してパレードを見ている人々に混じって、凌も彼女に手を振る。彼女の横顔しか見えない。姫の赤い瞳が凌に向かって陽気にウインクして、凌は大喜びでますます手を振って、でも何故か判ってしまう。自分からは見えないもう片方の目から、涙が流れていることが。
 でも凌には何もできずパレードはどんどん遠ざかって、ついに姫は見えなくなる。気がつけば回りにいた群衆も誰もいない。凌は一人で、必死に泳いでいる。真っ赤な大河を、流れに逆らって。姫の血の涙の川を、流されていく。
 滝について、落ちた。奈落の底へ叩きつけられて、目が覚めた。
 ガタッ、と椅子を鳴らしてしまい、本を整理していた司書だか学芸員だかの女が全身で驚いたので、どうもと一応謝って図書館を出た。
 どうしたんだ、俺は。どこの誰かも判らない女を、夢の中まで追いかけている。どうしてこんなに切羽詰まってるみたいに必死に、──いつから。
 あの目を見た時から。
 凌はまたバイクに乗って、夕飯がわりのパンを買いに走った。
 気がつけば日が落ちかけている。昼がどんどん短くなっている。また一日が終わってしまう。何もしていないのに、貴重な時間がまた減っていく。
 名前も知らない公園の側にあった店でパンを買って、姫の檻に戻ろうと思った時、公園から出てきた汚い身なりの男と目が合った。
 いつもならそんな男には目もくれないし、万一目が合ってもそのまま行き過ぎるだろう。だが今日ははっきり目を見返してしまった。家族も、住むところも仕事も、今日の夕飯もないだろう、この男を。
 夢の中、遠ざかって行く政士、哲明、そして姫。誰からも取り残される俺。
 男の慈悲を求める目つきに、無性に腹が立った。抑えきれなかった。
「何だよおっさん、恥ずかしくねーのか」
 健康で、自分でどこにでも歩いて行ける男の癖に、他人に縋って時間を無駄使いしている。そう思ったら我慢できなかった。姿は違うけれど、今の自分とどこか似ている。だから怒鳴った。
「まだ生きてんだろ、だったら自分で何とかしてみろよ!」
 凌の言葉に、精気のなかった男の目に殺気が宿った。
「何だと、おまえはどうなんだ、親に養ってもらってるガキのくせに!!」
「うるせえ!! 俺のことなんてどうだっていいだろう!!」
 言い返して凌はバイクに乗る。ヘルメットも被らずにエンジンをかけた。
「てめえだって何にもできないだろうがっ、偉そうなこと言うんじゃねーっ!!」
 追いかけてくる物乞いの声を振り払うように、アクセルを握りしめる。
 あんな男に言われるまでもねーよ。俺はまだ十七のガキで、堅物の親父に食わせてもらってる。一人じゃ生きていけない。俺には何もなくて、何もできないけれど。
 でも俺を待っていてくれる彼女がいる。きっと今もあの静かすぎる凍える場所で、俺を待ってる。待っていて欲しい。
 だが考えごとをして走っていたせいか、あと十五分くらいのところまで来て、凌は事故に遭ってしまった。飛び出してきた犬を避けようとして、転倒したのだ。
 ヘルメットを被っていなかったが、幸いにも怪我は打ち身と擦り傷ぐらいで大丈夫だった。だがバイクはミラーがぐにゃりと曲がり、ハンドルが途中で引っ掛かって向きが変わらない。
 どうしようもなく重たい車体を起こして、凌は夜空を仰いでため息をついた。ついてないのを通り越しているような気がする。何かが姫のところに行くのを、邪魔しているのではないだろうか。
 凌はバイクを引いて、このバイクを買った店まで歩いていった。学校に知られたらまずいのを承知で、学校の近所のバイクショップで買ったことを、こんなにありがたく思ったことはない。閉店していたのにも係わらず、バイク野郎好きの店主に湿布薬とバンドエイドまで貼ってもらって店を出た時は、もう夜更けに片足突っ込んでる時刻だった。
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by NEW-CHAO | 2005-02-18 17:10 | 小説-Angel(4)

Angel

 疲れきった足を昨日の夜よりもいっそう引きずって、車のヘッドライトも届かない角を曲がると、またあの疑問が頭に浮かんで苦しくなる。いなかったらどうしよう。今朝の医者と一緒に、どこかに行ってしまっていたら。
 彼女がいなかったら、俺のいる意味がない。俺が彼女のためにできることなんて何もないけど、くだらない喋りで、彼女の暇つぶしはさせてやれる。だからどうか、俺から彼女を取り上げないでくれ。
 祈るような気持ちで、製薬会社の廃ビルの裏に駆け込む。犬が檻から飛び出してきて凌を迎えた。雨よけカバーにくるまっていた姫が身を起こす。美しい笑顔。
 凌も微笑った。彼女は今日も待っていてくれたのだ。この俺を。
 たとえようもなくきれいな陽紅の瞳に浮かぶ言葉が、はっきりと音になって凌の胸に届く。来てくれて嬉しいと。空耳なんかじゃない。
「待たせてごめん、バ」
 バイクで転んで、とつい言いかけて凌は言葉を飲み込んだ。恰好悪い。哲明のことを笑えないではないか。
 ひとしきり凌にじゃれついた犬は、弾む足取りで草むらの方に行ってしまった。背中をちらりと見やって、凌は姫を見返す。
「本当、……ごめん」
 檻の中で立ち上がった姫は、強く首を横に振って、闇に光を発しているように見える白い手を伸ばした。凌は力強くその手を受け止める。氷の指。
 凌は手を離して、巻いていたマフラーを彼女の首に巻き付けてやった。それから背負っていたバックパックの口を開いて、靴下を袋ごと姫に手渡し、自分は簡易カイロの袋を破る。
「これ履けよ、新品だから。畜生、なかなか熱くなんねーな、こいつ」
 姫は少しためらったけれど思い切ったように袋を開けて、しゃがみ込んで男物の靴下に足先を入れた。凌の靴のサイズは二十七・五センチだ。大きすぎて合わない踵の位置に、姫は凌を見上げて困ったように笑う。
 月並みだけれど、なんて可愛いのだろう。
 凌はやっと温かくなったカイロを、彼女の細い足首を押さえて、靴下の中にねじ込んでやった。くすぐったがって姫が逃げようとする。二人の間を隔てる檻がなかったら、月明かりの下、思いきり追い駆けっこできるのに。
 その時凌の腹の虫が鳴いて、姫が声を立てずに屈託なく笑った。地面にあぐらをかいて、凌はムッとして見せる。
「晩飯まだなんだから仕方ねーだろ、食ってもいいか? 姫も食う?」
 パンとペットボトルを取り出した凌に、姫は笑ったまま、いらないと首を振った。家から持ってきたジャムトーストを思い出して、凌は辺りを見回したが、犬の姿は見えない。
 犬を探している彼の様子に気がついて、姫が口笛を吹いた。茂みから犬が飛び出してくる。凌は目を見張った。
「姫、口笛は吹けるのか」
 檻に入ってきた犬の体を撫でてやりながら、姫は頷いた。凌がパンを差し出すと、犬は一応匂いを嗅いでから食べ始める。
「なら、イエスかノーかぐらいは言えるな、イエスなら尻を上げて、ノーなら尻下がりに吹くとか」
 姫は口笛を吹くように唇を尖らせたまま、凌を見つめ返した。自然なままの、桜色の唇。そんな顔をされると、意味もなく大声で叫びたくなる。
「んな顔すんなよ、タコみたいだぜ」
 からかって言う凌に、姫はわざとふくれてみせる。
 目を合わせているのが照れくさくて、凌は買ってきたパンをばくばくを食べ始めた。犬が、くれ、と言いたげに鼻を伸ばしてくるので、時々ちぎって分けてやる。
 彼女の方を見ないようにしながら、年が同じ十七であること、生まれたのはこの街ではなく、親兄弟はいるが、今の居場所は判らないこと、朝の小男は医者であることなどをきいた。テレビや音楽のこと、学校の話をして、彼女が笑って口笛で適当なメロディーを吹く。パンを食べおわった凌は、意を決して顔を上げた。
 そんなことはあり得ないと思う。だが心のどこかに政士の言葉が引っ掛かっている彼は、恐る恐る、口を開く。
「医者が来るなんて、どっか悪いのか?」
 偶然なのか、それとも話題を変えようとしたのだろうか。
 姫はふと気づいたように、凌の手の甲に貼ってあるバンドエイドに触った。手を引き戻そうとするのを許さずに袖を捲くって見るので、打ち身に貼った湿布まで見られてしまう。
 どうしたの、と尋ねる瞳に凌は一瞬目を逸らしたけれど、観念して姫を見返した。
 彼女に見つめられると、嘘が付けなくなる。
「ちょっと……転んだだけだ」
 みっともない本当のことを話してしまう前に、凌はのこぎりを手に立ち上がった。一日図書館で過ごしたのだから、作業を始めるなら早いほうがいい。
 だができなかった。いつかと同じに、冷たい指が凌を引き留める。
 座ったまま自分を見上げる彼女の目は、まるで魔法の鏡だ。
 怖いほど美しく澄んで、自分ですら見えないふりをしている真実の姿を、痛いほどはっきりと映し出す。目を背けることもできない。そのうえ聞いてほしくなる。何もかも、この胸のうちにあるもの総てを。
 それはどうして?
「俺、政士の歌が好きでさ。上手なだけじゃなくて、生き生きしてるだろう、あいつ。あいつの歌も」
 今夜は風がない。冴えきった冷気の中、月のスポットライトを浴びて、彼女と二人で見つめ合っている。他には誰もいない。
「歌って生きていきたいなんて、夢みたいなこと言いやがって、でも政士ならやれるんじゃないかな、ピアノも上手いし」
 凌の持つのこぎりを気にしながらも、犬は姫の足に体を押しつけて丸くなった。でも見張るように目は開けて、凌を見ている。
「俺が最初に客のいるところで踊ったのは中三の文化祭で、出し物と出し物の合間を繋ぐために、テツたちとふざけてやったんだ。モー娘。の『ラブ・マシーン』って知ってるか? あれに合わせて四人で踊ったら、なんかやたらウケてさ」
 姫がメロディーを口笛で吹いた。凌はのこぎりを置いて、うろ覚えの振りを再現してみせる。ダンスと威張って言えるほどのものではなかったけれど、楽しかった。みんなと練習することも、当日に向けての準備も、もちろん踊ることも。
 でもあれがきっかけで、哲明がダンスに真剣になっていたなんて、知らなかった。
 本気でしたいことなんて、何もない。どこに見つければいいのか判らない。いつもいつも胸の奥にある疑問、今までは誰にも訊けなかった。訊けばきっと笑われる。真面目になるのは、恰好悪くて恥ずかしい。
 彼女の奏でる高音が天に吸い込まれて、凌は伸ばしていた手を下ろした。あの頃は素直に、決められた通りに生きていくことを、何とも思わずにいられたのに。
 立ち止まったら進めない。
 気づけば回りには誰もいなかった。
「俺は政士やテツが羨ましい。何か見つけなくちゃいけないのは判ってるけど、全部意味なんかないみたいに思える」
 この気持ちを、状態を、親にどう説明すれば判ってもらえるのか。じっくり考えるのなんて面倒で、黙っている方が楽だった。一生懸命になんてなれなかった。
 おまえに出会うまでは。
「俺は何のために、……何のために」
 ──彼女に総てを話したくなるのはどうして?
 それは彼女が。
「何のために生きてるか、考えたことあるか?」
 何も、訊かないから。
 凌の質問に、姫は口笛を吹かなかった。首も振らなかった。
 ゆっくり目を伏せて立ち上がると、唇に一本だけ伸ばした細い人指し指の指先を当てて、小さく笑う。じっと見つめている凌の唇に、その指を軽く触れさせた。
 ドキ、と鼓動が跳ね上がった。ただ、一瞬触られただけなのに。
 びっくりしている凌の右手を取って、姫は前を開いたハーフコートの中に導いた。薄いシャツの下の、柔らかい胸。その下で脈打っている、力強い心臓に触れと言うように。
「姫、よ、……よせよ」
 姫は真面目な顔で凌の手を自分の胸に触らせて、同じように右手で、セーターの上から凌の心臓に触ろうとする。触られた瞬間、電気が走ったような気がして、凌はたじろいだ。
 女の胸を触るのは初めてじゃない。触られるのだって初めてじゃないのに、どうしてこんなにドキドキするんだ。セーターの上から軽く触られているだけなのに、鼓動がめちゃくちゃ速くなってるのが姫にバレちまう。今にも飛び出してきそうなくらいに、心臓が暴れてるのが。
「姫、……」
 凌は掠れそうになる声を押し出した。姫は穏やかに凌を見上げている。
 手のひらに感じる姫の鼓動。強くて、暖かい。決して止まらずに、同じリズムで動き続けている。
 俺と同じに、ここで生きている。その瞳を見つめていると、何も……恥ずかしくない。
「俺は、迷惑じゃないか?」
 一秒と間を置かず、下がり気味の口笛。
「俺がここにいて、嫌じゃないか」
 嫌じゃないと。言葉よりも確かな音で、揺らがない視線で彼女が言うから。
 暴れていた心臓が静まって、姫の鼓動と同じになる。凌は姫の胸から右手を離して、目の前の棒を掴んだ。自分の胸から離そうとする姫の手を、離せないように左手で押さえて。
 どうかもう少しだけ、俺がここで生きていることを感じていて欲しい。
「姫」
 俺の回りに寄ってくる女たちは、俺の見た目から俺がどんな人間か勝手に決めつけて、勝手に盛り上がってる。俺のことなんて何一つ知りはしないで、自分で作り上げた『俺』を好きだと言う。女も親もイメージ通りの俺に、俺を変えようとする。
 でも姫は違う。
 おまえだけが俺に何かを要求しない。
 おまえだけが俺のありのままを受け止めてくれる。
 姫、おまえだけが、俺を自由にする。
「……俺のことを、好」
 そっと、檻を握っている凌の指先に姫が唇を触れさせた。それ以上訊くなと言うように。
 ──応えるように。
 広げた彼の手のひらに、目を閉じて何度もそっと姫がキスをする。その白い頬を包み込んで、凌は冷たい耳を頬を顎を撫でた。姫のまぶたの下から涙が流れ星のようにきらめき落ちて、凌も目を伏せた。彼女の涙も、凌の胸を震わせる。
 人前で泣いたのは、久しぶりだった。


 浅い眠りから何度目かに目覚めた時、辺りはうっすらと明るくなっていた。すっかり夜が明けた訳ではないけれど、じきに朝らしい。
 彼を気づかってマフラーを返してくれ、自分はカバーを被って小さくなって眠っている姫の髪を、凌はもう遠慮せずに撫でた。どんな光よりも眩い金の髪。滑らかに指の間をすり抜けていく。
 彼女にべったり凭れて寝ていた犬が、気配に気づいたのか頭を上げた。もう片方の手を伸ばして、姫とは明らかに違う手触りの頭から尻まで全身を撫でてやる。つぶらな瞳。犬は見た目には左右されずに、人の心根を見抜く。
「おまえも姫に惚れたのか?」
 小さな声で言って、清々しい朝靄の中、凌は一人で笑った。
「俺もだ」
 マフラーを解いて彼女にかけてやる。姫の髪にまた手を伸ばした時、白っぽい朝日の光に、凌は気がついた。
 姫の髪の根元が黒いことに。派手な金色に見逃していたけれど。
 姫はもしかして……金に染めているだけで本当は黒髪なのか? 何のために。
 訊いてみなければ事実は判らないけれど、嫌な感じに息が苦しくなった。
 この先には、何か恐ろしいものが待っている。出口のない迷路、それとも蟻地獄。踏み込んだら後戻りできなくなるような、嫌な予感が背筋を這い上がって、凌は身震いした。
 このままずっと姫の寝顔を見ていたい。何にも邪魔されず、何も変わらないまま。そんなことはもちろん、叶わない夢なのは判っているけれど……。       (5)へ続く
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by NEW-CHAO | 2005-02-18 17:02 | 小説-Angel(4)