カテゴリ:小説-Angel(3)( 4 )

Angel

  3.  The Song

 政士が最初に歩きだしてコートを拾い上げて、まだ後ろで立ち尽くしている凌を振り返った。余計なものが入っているのでいつもより重いバックパックを手に下げて、哲明は不思議そうに凌と姫を見比べている。政士は凌にだけ聞こえるような,低い声で言った。
「おまえのじゃないのか」
 コートの代わりに幅の広いマフラーを制服の上に巻き付けた凌は、姫を見つめたまま無表情に答えた。
「違う」
 偶然かわざとか、コートは水たまりを辛うじて避けて落ちていたので、砂にまみれた程度で済んでいる。
 奇しくも彼のマフラーと植村のロングコートは同じ色、キャメルだった。
「……嘘だよ、俺のだ」
 昨日の夜中、俺が貸してやったコートだ。サイズが大きすぎるのを照れたように笑って着た、俺のコート。
「サンキュ、政士。……迷惑だったんだろ」
 凌は自嘲気味に鼻を鳴らすと、コートを政士から受け取った。座ったままの姫は何か言いたそうに唇を開き、だがもちろん何も言わずに目を逸らした。
 彼女は昨日と同じように、日の当たらない廃ビルの裏にいる。夜中に別れて以来、ずっと脳裏に思い描いていた、そのままの白い姿で、狭い檻の中に。
 夢じゃない。
 いる筈のない、赤い目の美しい女。
「姫、元気ないな」
 哲明は荷物を乾いたアスファルトに下ろして檻に近寄って、俯いている姫を覗き込む。姫は、そんなことない、と言うように首を振ったが、『そんなことない』ことないだろう、と哲明は姫の正面にしゃがみ込んだ。
「先刻の男が、おまえを閉じ込めているのか?」
 高校生の自分たちはもちろん、自分たちの親にも手の届かなさそうな、ブランド物風の、おそらくカシミヤのコートを着て、偉そうに姫を見下ろしていたあの男。
 顔までは見えなかったが、堂々として、いかにも金持ちそうだった。女の子を閉じ込めるような変態には見えなかったが、それらしくないところがより本物の変態ぽい。
 姫は哲明とすぐその後ろに来た政士と、それからまだ少し離れて立っている凌を見て、小さく頷いた。あの男がまだ側にいて、自分たちを見ているかのように、微かに。
「そっか。あいつ何者なんだ? ……って、喋れないのか。不便だなあ」
「江藤」
「あっ、……ごめん」
 姫は聞こえなかったような顔をしていた。自分を抱くように、腕に手を回して立ち上がる。
「あの、今日はね」
 気を引き立たせるように、政士は明るい声を出した。
「凌が家から、のこぎりを持って来たから。折り畳める小さいのしかなかったから、時間は掛かるかもしれないけど、その棒の一本ぐらいは切れるんじゃないかな。凌、貸せよ」
 凌は言われるままに背負っていたバックパックを下ろして、袋ごと政士に手渡した。錆びた刃を政士が起こし、哲明がおどけて言う。
「歯こぼれしなかったらね。したら凌がヤスリで続きをやるってさ」
「……俺が?」
「そーだよ、だって出してやるっつったのおまえだろ、自分の言ったことには責任持たないと駄目だぜ。なあ、姫、俺テレコちゃん持ってきちゃったんだけど、ラジオ掛けてもいい?」
 凌が文句を言いかけるのを無視して、哲明はバックパックから古い型の小さなラジカセを出してアンテナを伸ばし、政士はのこぎりを持ってビルの壁際に移動した。一番目立たなさそうな、壁から二本目の棒の下の方に弱そうな刃を当てる。耳障りな甲高い音がするんじゃないかと、政士は一瞬ためらったが、
思い切ってのこぎりを引いてもあの音はしなかった。
 風が吹いて、檻の上に広げられていた、灰色というか銀色のシートが、ざざあっと垂れてくる。せっかく乾かしたのに、落ちたら元も子もない。落ちる前に、凌は雨よけカバーを天井から下ろした。
 姫がじっと、自分を見ている。
「これ一応防災用って言うの? 避難用具と一緒にしまってあるんだけど、全然使わないからさ。たまには聞いてやらないとラジカセとしての意義がないじゃん?」
 誰に言うともなく、ラジオのチューニングを合わせながら哲明が言う。
「兄貴が小学一年ん時に買ったヤツだから、ほとんど腐ってるけど……あ、合った合った、まだイケるじゃん」
 雑音が小さくなって、最近人気上昇中のバンドの曲が流れてくる。フンフンと鼻唄を歌っていた哲明は、檻の外においてあるバスケットに気がついて、気なしに持ち上げてみた。思ったより重い。
「姫、中見てもいい? ……ああ、弁当だ。ほとんど食ってないじゃない、お昼だろ、食べなよ。俺たちのこと気にしないでいいから。はい」
 哲明が箱を差し出したので、成り行きで受け取ってしまった姫は、少し困ったようにまた凌を見た。凌は目を逸らそうとして、でもできなかった。
 姫のことなんて知らない。
 先刻の男が何者かも、どうして閉じ込められているのかも、いつまでこうしているのかも、俺が学校で姫のことを考えている間姫が何をしていたのかも。だけどこの目が俺を引き寄せるのは本当だ。俺をどう思ってるか、何も言ってくれないのに、──どうしても無視できない。
「何か、コーヒーでも買ってくるか」
 苦し紛れに言うと、姫は首を横に振った。
 行カナイデ。
 気のせいだろう。でもそう聞こえてしまうのだ。彼女がコートを投げるのをこの目で見たのに。
 俺のことなんて、俺が思うほどは思ってないって、思い知らされたのに。
 そんなに俺を見ないでくれ。俺を何とも思ってないなら。苦しいから。
「聞いて姫、今日凌の奴、ジジイの血管ぶっちぎりそうなことするんだぜ。放課後に呼び出しくらってたのに思いっきりシカトだし」
 楽しそうに報告する哲明を、凌はじろりと睨んだ。姫から目を逸らす理由ができたので、ホッとしたのも事実だったけれど。
「あの野郎、とっととくたばっちまえばいいんだよ」
「呼び出し、って、何、やったんだ?」
 作業を続けながら、政士が途切れ途切れに口を挟む。
「大したことじゃねーよ」
 コートを地面に下ろしながら嫌々答えて、ついでのように凌は手にしていた銀色のシートを姫に差し出した。薄いシャツだけでは寒いに決まっている。本当はコートも、今巻いているマフラーだって使わせてやりたいが、迷惑になるかもしれないと思うと怖くて渡せない。
「照れ屋ね、凌は。姫には恥ずかしくて聞かせたくないんだって。ところでさ、姫って学校には行ったことあるのか? 行きたい?」
 シートを受け取って、姫は哲明の言葉に何度も頷いた。昔は通っていて、でも今は行けないから行きたい、という意味か。
 凌は哲明の方を向いて投げやりに言った。
「行ってもしょうがねえところだぜ、なあ」
 同意を求められて、哲明もそうそうと頷いてみせる。
「そりゃおまえ」
 バックミュージックのリズムに合わせてのこぎりを押したり引いたりしていた政士が、少し笑いながらあっさりと、また口を挟んだ。
「行ってるから言えること」
 ざざざっ、と雨よけカバーが風に煽られてアスファルトを滑った。姫がうっかり手を離してしまったらしい。飛んでいかないように哲明が捕まえて、ゆっくり瞬きをした。
「そりゃ……そうだ」
 凌は何も言わずに政士の側へ行くと、彼の手からのこぎりを取って勝手に交代した。屈んでいると腰が痛くなるので、砂は気にせず地面に片膝を着く。
 ノコギリを使うのなんて、中学の技術の時間以来だから、コツが判るまでは刃がぐにゃぐにゃしたが、リズムを掴むとそう苦でもなかった。やってみたことはないが、現場のバイトっていうのも自分には向いているかもしれない。元々、政士のような頭脳派タイプでもないし。
 顔を上げると、姫が床にペタンと座って凌を見つめていた。手を伸ばせば届くところにある、細い肩。相変わらずの素足は、爪が恐ろしいほどの紫になっている。氷のような。
「……離れろよ」
 言う、と思うより先に言葉が口を衝いて出ていた。
「側にいたら危ないだろう、やりにくいじゃねえか」
 姫は顔色を変えなかった。風になびく金髪以外は何も動かない。瞬きもしない。
 彼女の目に、怒った顔の俺が映っている。
 醜い。
「見てんじゃねーよ」
「凌、何言ってるんだよ」
 自分のバックパックの中を探っていた哲明が鋭く言って、凌の腕を掴んだ。いや、掴んだ瞬間に振り払ったので、哲明は空を掴んで拳を握りしめてしまう。何か言いかけるのを睨んで黙らせると、素直に口を噤んでしまった彼の代わりか、政士が離れたところから割り込んだ。
「面倒になってきたから、姫に八つ当たりか」
 父親みたいな冷静な声に、凌は目を逸らす。
 姫は何も言わない。
 何か言ってくれればいいのに。怒ってるとか、出してくれなんて頼んでないとか、もう二度と来ないでくれとか……何でもいいから言ってくれれば。
「交代、しようか」
 何気ない調子で哲明がそう言った。
「ああ……いや、いいよ、テツ。ごめん」
 凌は長すぎる前髪を掻き上げて、首に絡みついているマフラーを放り出して、もう一度言った。
「ごめん」
 ラジオから、何年か前にヒットした映画の主題歌のイントロが流れてきた。心を穏やかにする、柔らかいギターの音。
 哲明が政士を振り返る。
「俺この歌好きだな」
「俺もだよ」
「マイク、はいっ」
 投げられた布製の筆入れを受け止めて、政士は姫に向かって一礼してみせると、それをマイクの代わりに左手で握りしめて歌いだした。抑えた歌い方だが、透明な声は暮れていく空に広がっていく。
 歌う時の政士の声は普段よりも高くて、凌は邪魔にならないようになるべく静かにのこぎりを動かした。そろそろ部長に就任かと、署内で噂になっている彼の父親は、受験生になるまで政士が夜の駅構内などで、気まぐれに歌って小銭を稼いだりしていたことは、まるで知らないだろう。
 十五・六の頃はほとんど毎週末を、政士は歌って過ごしていた。ギターも、おもちゃのピアノも使わずに、時々手にしている楽器といったらプラスチックのタンバリンぐらいで。リズムだけ取りながら、誰も聞いていなくても、いつも本当に楽しそうに。政士は運良くヒットチャートにもぐり込んだ新人よりも歌が上手で、それ以上に親の目を盗むのが上手だ。
 凌が地面に脱ぎ捨てたマフラーを拾い上げて、哲明が風を受けながら一人で踊りはじめる。脱色した髪が夕焼けに透けて光っているのを、ちらりと盗み見すると、姫はシートを握った手を胸に当てて、潤んだ目で見上げていた。綺麗な光だった。
 政士の声は、どうしてこんなに自由なんだろう。美しいメロディーに胸が灼けつく。嫉妬してるのか? 俺が? ──誰に?
 姫がどう思ってるのか、知りたいだけ。
『教えて あなたなしで どうやって生きていけばいいの』
 政士の歌う英語の歌詞が、いっそう深く胸を突き刺した。ごまかすために、凌は檻を切るのに熱中しているふりをした。
 歌いおわった政士が制服の裾をつまんで、気取ったお辞儀をする。熱心に拍手をしていた姫に、哲明はマフラーを首に引っかけて、わざと手を差し出した。
「心付けはこちらです」
 姫は、やられた、とでも言いたげな顔で笑うと、弁当箱の中から季節外れのサクランボを見つけ出して、哲明の手に乗せた。政士には青いみかんをポンと投げる。
 時々作業を交代しながら、手が空くと歌う政士と踊る哲明を、姫は昨日と同じように楽しそうに眺めていた。何事もなかったような静かな笑顔で──だが凌には横顔だけを見せて。
 だから凌もあまり姫を見なかった。視界の隅に入るカバーと金の髪から、必死で目を逸らしていた。見るなと自分が言って、姫が自分を見ないだけのことだ。そんなことは判っている。判っているけれど、何だか息が苦しくて、苛々する。すっかり日は落ちたのに熱い。
「あら、調子悪くなってきちゃった。飛行機のせいか? テレコちゃん頑張れよ」
 急に雑音が入りだしたラジオに向かって哲明が言うのと、何かに気づいたらしく姫が立ち上がるのは同時だった。チューニングを合わせようと、アンテナの角度を変えている哲明の背中を指でつついて、追い払う仕種をする。
「え? 姫どうかした?」
 哲明が凌の顔を見る。ノコギリの刃を畳んで、凌はため息と一緒に言葉を吐き出す。
「帰れって言ってんだろ」
 凌の声に、姫は横目で彼を見て、戸惑いながら頷いた。政士が腕時計に目をやる。
「うわ、七時半だ。じゃあ、またな」
「俺ものこぎり探してみるよ、風邪引かないようにな、姫」
 ラジカセを袋に入れて担ぐと、哲明は指を二本揃えて挨拶した。政士も手を振って、凌はバックパックを背負って黙ったまま行こうとして……だが行けなかった。引き止めた手がある。
 心臓が一つ、強く打った。
 彼の右手を握る、血の気のない冷たい指。力がこもっている訳でもないのに、握られた手だけが凍りついたように動かない。
「凌?」
 政士の声に弾かれて、凌は姫に向き直った。彼女はまっすぐ凌を見上げている。揺るがさずに、決して逸らさないで。
 ズキ、と心臓にまた響いた。
 彼女は何も言わない。静かに燃えている赤い瞳。勝手に酷いことを言ったのは俺なのに、責める色も傷ついた色もない。ただまっすぐに、こっちが恥ずかしくなるくらい、毅然と。
 凌は左手でコートを拾って、檻の間から差し出した。
「また」
 姫がどう思ってるか知りたい。
「また……明日」
 冷たい手が離れて、凌のコートを羽織る。彼を見上げて姫は微笑した。凌も笑い返したけれど、笑顔になったかはよく判らない。
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by new-chao | 2005-02-12 14:59 | 小説-Angel(3)

Angel

               ◇     ◇     ◇

「いらっしゃ……」
「なあんだ、ここにいたんだ、探しちゃったじゃーん」
 挨拶しかけた言葉を遮って、自動ドアが閉まるより先に彼女たちは嬉しそうに言った。空いたテーブルを片づける手を止めて、凌はため息をついた。
 探してくれなんて頼んでねーだろう。
「ショートホームルームが終わった途端にすっ飛んで帰るから、どこに行ったのかと思うじゃないの。江藤に聞いても知らないって言うし」
「でもなあんだ、バイトだったんだ」
 いちいち言わなきゃいけないのか、テツに。それともおまえらに?
 凌は慣れた手つきで、お盆に使用済みのグラスと皿と灰皿を乗せてテーブルを拭くと、腰に下げている伝票とペンを取り出す。
「ご注文は?」
「やあだ、まずお水持ってきてよ」
「ねーっ」
 メニューを開く彼女たちをテーブルに残して、凌はカウンターの奥に戻った。水曜の夜、平日だからか、店内は空いている。
 昼間は喫茶店で夜はバーのこの店で、凌がウエイターのバイトを始めたのは、二年生になる少し前の三月からだ。大型の休みの時以外は土日祝のみの契約だが、昨日の夜先輩から、土曜と交代して欲しいと電話があったので、今日はガソリンを入れたバイクを飛ばして来た。先輩の頼みだから断れなかったとい
うのもあるし──用があれば、あの場所へ行かなくて済むということもある。
 あの場所。姫のところへ。
 凌は新しいグラスに水を注いで、二人の女のテーブルに運ぶ。行きたくはないが、相手は一応客だから仕方がない。
 彼女たちは去年、凌がまだ熱心に水泳部の練習に出ていた頃、よくプールを囲んでいるフェンスに張りついてキャーキャー言っていた同級生で、凌はやっぱり名前を忘れている。覚えるつもりもない。
「でも凌がウエイターしてるとこ見るの久しぶり。お店に合わせて、ちょっと髪の色変えればいいのに、お洒落にさ」
「ピアスとかねーっ、似合うよ、きっと」
「なんでやらないの? 今みんなやってるじゃん」
 やる理由がないから、だ。おまえらが俺をどういう人間だと思ってるかは知らないけど、俺は流行に興味ない。やりたい奴がやればいい。みんながやってる、は理由にならない。
「ねえ、最近学校終わってからどこ行ってんのよ。誘ってくれればいいのに。明日の夜とかどお? 遊びに行こうよ」
「チエリちゃんとデートとか言わないよねー」
「そんなんじゃねえよ」
 ぶっきらぼうに凌が答えると、彼女たちは嬉しそうに笑った。髪を掻き上げた時に揺れたピアスが、店の照明を反射して光った。
「やっぱりあの子勝手に言ってるだけなんだ、凌のオンナだって。じゃあいいじゃん、遊びに行こっ」
 一人が馴れ馴れしく腕を掴んで、凌は即座に解いた。
「俺は忙しいんだよ」
「やだ、冷たいわね凌、もしかして勉強? な訳ないっか」
「それで注文は?」
「あ、えっとねー」
 二人の注文を取って、凌はもう付き合わないつもりで奥へ入った。何故か判らないけれど苛ついている。簡単に触って欲しくなんかないのに。
 ──昨日の冷たい手が、忘れられない。
 ほとんど丸一日姫の顔を見ていない。哲明とも姫の話をしないようにしていたから、今日哲明と政士があの場所へ行ったかどうかは聞いていない。行きたければ行けばいいし、面倒だったらやめればいい。檻から出してやるなんて言ったのは自分で、二人は巻き込まれただけなのだから。必ず自由にしてやるな
んて、いい加減なことを。
「レジお願いしまーす」
「あ、すいません」
 カップルで来ている客に呼ばれて、凌はレジの前に飛んで行った。大学生ぐらいだろうか、流行の長髪を一本に結んだ細身の彼氏が、当然のように財布を出している。
「三千百九十三円になります」
 無愛想に伝票を受け取りながら、凌はドアの側で彼氏を待っている女をちらりと見た。ブランドバックにロングブーツがさまになっていて、男なら自分の分まで金を払うのが当然という雰囲気だが、男の方が迫力に圧されてつい下手に出てしまいそうなタイプだ。特に美人という訳でもないが、惚れた弱みで、
何でもしてやりたくなってしまうのだろうか。
 凌はチエリや他の女の子と何かを食べた時や、どこかに行った時に、相手の分まで払ってやったことはないし、もちろん払ってもらったこともない。借りを作るのは嫌だし、払ってやるような仲ではないと思っていたからだ。
でも、もしも姫と、だったら?
「六千八百七円のお返しです。ありがとうございました」
 凌は店を出て行くカップルを見送って、その女の後ろ姿に姫の姿を重ねてみようとしたが、できなかった。
 彼女の印象は、何かを訴えてくる炎の瞳。
 姫の後ろ姿なんて見たこともないし、自分と二人で歩いているところも想像つかない。彼女は他の、どんな女とも違う。
 ため息をつきかけた凌に、奥から声が掛かって、凌はできた料理を盆に乗せて彼女たちのテーブルに運んだ。小さな店だからウエイターは二人しかおらず、もう一人の仲間とはちょうど行動が互い違いになっているらしく、あのテーブルには行きたくないのだが、彼が行くしかしょうがないリズムになってしまっている。嫌でもそれが仕事だから、どうしようもない。
 バイトを始めたきっかけは、バイクの免許を取るために教習所に通っていた時に、中学時代の先輩に誘われたことだった。先輩はもっと割りのいいバイトを見つけたため、自分の後釜が欲しかったのだという。凌も部活に出なくなって暇だったし特にやることもなかったし、バイク代も欲しかったので引き受け
て、今に至っている。バイクを買ってからは金を貯める必要も差し迫ってはなかったが、他にやることもないので続けていた。
「お待たせしました」
 テーブルに皿を置いて、凌がすぐ離れようとすると、女の一人が素早く彼のシャツを引っ張った。
「あ、ねー凌、そう言えばね、江藤が言ってたよ、凌のこと」
「テツが? 何を」
 彼女が答えようとしたのを遮って、もう一人が言う。
「凌と江藤、ダンスの大会に出るんだって? 聞いちゃったよ。凌ってクールみたいだけど、かなりマジ?」
「んもう、あたしが喋ってんじゃんっ。江藤がね、凌ももうちょっとマジにやればいーのに、ってさ。笑ってたけど結構キテたよね」
「そうそう、凌は顔もキムタクだし、マジにやればイケてるって言ってたよ」
 哲明がそういう言い方をしたとは思えないが、凌はふうんと答えてテーブルを離れた。女はまだ何か言いたそうだったが、ちょうど別の客が入ってきたので、無視して水を出しに行く。
 テツの野郎、真剣なのか。シャレだよシャレ、なんて言って申込用紙をもらってきてたけど。
 別にふざけて踊っているつもりはない。ただ真剣になれないだけで。
 授業も、部活も、どんな意味があるのか判らない。学校も家庭もつきまとう女も、ただ無闇に縛られている気がする。俺のことなんて俺自身にも判らないのに。無意味で無駄。俺には関係ない。
 関係あるのは。
 ──冷たい指先。今日も、寒空の下に。
 パシャ、と手に水が掛かって、凌は慌てて冷水の入ったアルミのポットを起こした。うっかりして、グラスから水を溢れさせてしまった。水たまりのできた盆を拭いて、水を注ぎ直す。
 でも、姫の気持ちは、俺には判らない。
 凌はふと目を上げて、少女たちのテーブルを見た。二人は笑いながら話している。自分を探してここまで来たと言っていた。高校生の女の子なら、とっくに家に帰っていなきゃいけない時間に。
 あいつらも……俺の気持ちが判らないで、苛々したことがあるのか。今の俺のように、どう思ってるのかはっきり言って欲しくて、胸が灼けつくような思いをしたことが。
 この痛みを。
 二人がこっちを見そうになったので、凌は二人から目を逸らして作業をしているふりをする。
 言ってやった方がいいのか? 俺の気持ちを、あいつらに話してやった方が。今すぐでなくても、いつか、はっきりと……?


「そりゃ、その方がいいだろうな」
 三百六十ミリリットル入りの太い缶紅茶を放ってよこしながら、後は寝るだけのパジャマ姿の政士は、あっさりとそう言った。
「悪いな、父さんが全部飲んじゃったみたいでビールがなくて。でも凌、バイクだろ? コーヒーの方が良かったか? それの方が手前にあったんで持ってきたけど」
「ああ、これでいいよ、サンキュ」
 時計はそろそろ十二時を回ろうとしている。
 バイトが終わってから、家へは帰らずに直接政士の家へ来たので、凌はまだ学生服のままだ。
 政士の部屋の二階にあるが、凌は子供の頃からよく庭の木を登って、窓から出入りしていた。昼間来る時はちゃんと玄関を経由していたが、夜中にこっそり来てもいいようにと、政士は窓に鍵を掛けないでくれているのだ。だがその逆に、政士が凌の部屋に行くことはあまりない。凌が自分の部屋にいることが少ないからだ。
 絨毯の上に胡座をかいた凌は、政士のベッドに凭れて缶のプルトップを引き開ける。一階の台所に飲み物を取りに行ってきた政士は、勉強机の椅子を回して座ると、凌を見下ろした。
「なんで急にそんなこと思ったんだ? バイトで何かあったのか」
「そういう訳でもないけど」
 いつ来ても、政士の六畳の部屋はきれいに片づいている。試験が近づいてくるといつにもまして整頓しちゃうんだよ、と中学生の頃から言っていたから、入試の直前にこれ以上できないくらい片づけたんだろう。
 政士は昔から、凌の両親にも受けがいい。政士が一緒だと言えば、ほとんどのことが許してもらえるくらいには。
「何かあった訳じゃねーけど……女が店に来て、それで何となくそう、思って」
「何となく」
 政士が何かを言いたそうにして黙ったので、凌は紅茶を飲む手を止めて上目遣いに彼を見た。
「何だよ」
「別に」
 読んでいたらしい雑誌をラックに戻して、政士はわざとらしく笑う。
「今まで女の子のことなんてどうでもいいって感じだったのに、急に思いやるなんて、どうかしたのかなと思っただけだよ。でも別に何でもないなら、凌も大人になっただけってことだよな」
 凌はフンと鼻を鳴らして紅茶を一気に飲んだ。
 一つしか違わないくせに、政士は時々妙に兄貴面をする。それにいちいち腹を立てはしないが、言い返せないから癪に触るのだ。
 年上の家庭教師とはどうやらうまく行かなかったらしいが、自分や哲明に愚痴をこぼすこともないし、やけ酒に付き合えと言うこともない。いつも冷静で、動揺しているこっちがまるでバカみたいだ。
「なんで急に大人になったのかなー?」
 顔を覗き込まれて、凌は目を背けた。
 政士のところへ来たのは、思いつきを聞いてほしかったからではない。いやそれもあったが、本当は聞きたかったのだ。今日、あのビルの裏へ行ったかどうかを。
 姫のことを。
「姫のせいだろう」
 缶に口を付けていたので、否定するタイミングを逃してしまった。
「そんなんじゃねーよって言いたそうだな」
 先を越されてしまったので、ますます何も言えなくなる。凌は解いて床に置いておいたマフラーを手にすると、立ち上がって政士の首を絞める真似をしてやった。
「だったら何だって言うんだよ、自慢の喉を絞めるぞ」
「そ、それだけはやめてくれ、苦しい」
 政士がもがくふりをする。凌は笑いながら手を離して座り直した。政士はパジャマの襟を直して、自分用のウーロン茶の缶を開けかける。
「今日も行ってみたよ、あそこに。江藤の家にも持って来れそうなのこぎりはなかったって言うから、どっちにしろ作業は進まなかったけど、姫が割りと元気そうにしてたのは見えた」
「見えた、って」
「見ただけなんだ。ちょうど俺たちが切ってる棒の前ぐらいに大きな車が停まってて、人がいたから」
「昨日の奴?」
 凌が訊くと、政士はウーロン茶を一口飲んで首を振った。
「違う。チビで、ゴマシオ頭だった。あれは医者じゃないかな」
「医者?」
「ああ。やってることまで見えなかったけど、背中の方を特に調べてるみたいだったな。何か話してたけど内容までは聞こえなかった。しばらく待ってはみたけど行きそうにないから、今日は姫には会わずに帰ったよ」
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by new-chao | 2005-02-12 14:57 | 小説-Angel(3)

Angel

「そうか……」
 そりゃ、しょうがねーよな。
 凌は自分に言い聞かせるように何度か頷いた。
 自分だってバイトをしていて、彼女のところには行かなかったのだ。二人が檻を切らなくても、事情があったのだから尚更仕方がない。姫は自分を閉じ込めてる男と自分たちを会わせたくないようだったから、割って入ったらそっちの方が迷惑かもしれないし。
「凌」
 黙り込んだ凌に、政士が鋭い声で呼びかけた。顔を上げると、先刻ふざけていたのが何時間も前のことのような、真面目な顔をして見下ろしている。
 何だ、と凌が言うより早く、彼は低い声で言った。
「姫と係わるのは、もうやめにしないか」
 ……言われた言葉の意味が、判らなかった。
 まるで本当にバカみたいに彼の顔を見つめている凌に、政士は噛んで含めるように、もう一度繰り返した。
「あの子とは係わらない方がいいと思う。嫌な感じがするんだ」
「……え?」
「凌は変だと思わないのか?」
 強い口調に凌は座り直した。政士は前髪を掻き上げた。
「見た目だけの問題じゃない、喋れないことと関係あるかどうか判らないけど、檻に入れられた女の子のところにわざわざ医者が往診に来るなんて、ただの病人じゃないだろう。精神病とか、ひょっとすると麻」
「麻薬中毒だって言うのか、姫が!?」
 夜中に他人の家にいることも忘れて、凌は怒鳴った。自分でも意識する間もなく、政士に掴みかかっていた。
「かもしれない……って、言っただけだ、そうだって、決まった訳じゃない」
「当ったり前だろう! なっ、何の証拠があってそんなこと……っ」
 怒りで言葉が詰まった。無言で政士の襟を絞め上げることしかできない。政士が苦しそうだと自分の一部が言ったが、大部分にうるさいと怒鳴られて引き下がった。止められない。
 姫が病気の筈が、麻薬中毒の筈がない。そんなことは目を見れば判る。
 美しい夕焼けの瞳。心を病んだ人間が、あんな綺麗な目をしてるか? 政士は姫の目を見てないのか!?
「りょ……凌、離……せよ」
 押しつぶされた政士の声に、凌はようやく手を離した。だが動悸は治まらない。
 姫の見た目は確かに日本人には見えないし、話せないのも普通じゃない。どうしてそんな姿をしているのか、どうして閉じ込められているのかも、話してくれないから判らないけれど。でもそれは……それは姫のせいじゃないのに。
「見損なった」
 凌は深呼吸すると、それだけどうにか言葉を押し出した。ズボンの尻ポケットから財布を出して、紅茶代分の小銭を机の上に投げてやる。
「帰る」
「凌、俺は」
「聞きたくない。姫は俺が自由にしてやるから忘れてくれ」
 凌はマフラーを首に引っかけて窓を開けると、振り返らずに政士の部屋を後にした。姫の指よりももっと冷たい風が、彼の頬を耳をなぶった。


 疲れた体を引きずるようにして、マフラーは文字通り引きずって階段を登り、自分の部屋のドアを開けた途端、内側から低い声がして、さすがにギクリとして凌は足を止めた。もう少し気をつけていれば、ヒーターのゴーッという音がしているということで、中に誰かがいるのは判った筈なのに。
「また午前様か、モテる男は辛いな、凌」
 凌はゆっくり息を吸うと、部屋に入って壁のスイッチで天井の明かりを点けた。
「……夜中に人の部屋で何してんだよ」
 闇に慣れた目にはきつかったらしく、父親は目を手で覆って何度も瞬きをした。ベッドに座っているところを見ると、彼のバイクの音がするまでここで寝ていたのかもしれない。
「おまえの部屋かもしれんが、父さんの家だ。どこにいようが勝手だろう」
 大人はいつもそれだ。こっちが絶対に勝てないことを、まるで唯一の真実みたいな言い方をする。自分の手柄みたいな。
「それで?」
 凌は担いでいたバックパックを机の上に置いて、形だけ明日の授業の用意をする。そうすれば父親の顔を見ないで済む。
「ここで待ってないと、またおまえに会わないで一日が過ぎるからな。朝飯も食わないで出掛けるんだから……本当に学校かどうかは判らんが」
 チャリ、とバイクのキーを机の上に置いて、凌は斜めに父親を振り返った。
 白いものが混ざりだした短い髪、これと言って特徴のない中年男の顔。自分と父親の顔が似ていると言われたことはほとんどないが、声が似ているとはしょっちゅう言われる。
「何だよ? 言いたいことがあるならさっさと言えよ」
「それが親に向かって言うことか。凌、二年生になってから全然部活に出てないらしいな。授業もさぼって、毎日夜遅くまで何をやってる? 悪いことじゃなければ言える筈だな。警官の息子として、恥ずかしくないのか」
「頼んだ訳じゃねーよ」
 警官の息子になりたい、なんて。
 ガタガタと、同じことを何度も。
「今までどこにいたのか言ってみろ」
「政士んとこだよ」
 凌は上着を脱ぎかけて、何気なく下を見た。
「本当だろうな。政士君のところだと言えば信じると思うのか、おまえはいつも政士君と一緒だと言うじゃないか」
 足元に、何かが落ちている。
「大体、政士君は今年受験だろう、おまえが邪魔をして万が一のことがあったら、俺は政士君と政士君のお父さんにどう謝ればいいんだ? 何をしに行ったのか知らんが、あの子を見習って、少しは真面目に勉強しようって気にならないのか」
 銀色の……指輪だ。
 いつか、通りに布を広げて売っていた若い外国人カップルから買った、凌が気に入ってよくはめているものが、落ちている。引出しの中に入れてあった筈なのに。
「別に父さんと同じ、警察官になれとまでは言ってる訳じゃないが、そろそろ将来のことをじっくり考えてもいい頃だろう。凌、聞いてるのか? ちょっと父さんの前に座」
「これが」
 凌はボタンを外す手を止めて、指輪を拾った。
「どうして落ちてると思う?」
「凌、そんな物はいいから父さんの話を」
「どうしてかって訊いてんだよ!」
 自分を十センチは裕に追い越してしまった息子を座ったまま見上げて、父親は動揺せずに答える。少しだけ伸びた顎の髭も白くなって、蛍光灯を反射する。
「おまえがきちんと整頓しないから、落ちてたんだろう」
 俺もこんな風になるのか。こんな風に見下ろして、平然としてる、ありきたりの男に。
「男のくせにそんな女の子みたいな物、チャラチャラして、恥を知れ」
「恥を知るのはおまえの方だ!」
 いつもなら言い返したりしない。話し合いになんてならないから、一方的に父親が納得させようとしてくるから、凌は相手にするのも面倒でいつも黙っていた。でも今夜は、苛立ちが胸に根を下ろしている。
「親に向かっておまえとはなんだ」
「親だろうが他人だろうが関係ない、しらばっくれやがって!」
 俺の机の中を漁ってみたんだろう、俺が帰ってくるまで暇つぶしか何か知らねえけど、机もタンスも屋根裏まで覗いて見たのか!?
 言葉の後半は心の中で怒鳴っただけだった。ずっと黙ってきたからか、すっかり口に出さないでいるくせがついてしまっている。
 一階でドアの開く音がした。彼の声に母親が目を覚ましたのだろう。向かいの部屋にいる姉は我関せずを決め込んで、聞こえているだろうに出てこない。母親が来る前に言うことだけは言おうと、凌はゆっくり息を吸い込む。
「親が子供のことを気にするのは当然だ」
「俺のことを全部調べなきゃ気が済まないのか? 俺は取り調べを受けてる犯人じゃねーんだ、何を持ってるか、一々言わなきゃいけない義理はない!」
「一々言わないから調べるんだろう」
「調べられるんなら話しても仕方がない」
 凌は声のトーンを落とした。母親が来るとまたうるさくなる。すぐ泣き声になって、お父さんの言う通りにしなさいとしか言わないのだ。バカの一つ覚えのように。
「見られたら困る物でもあるのか、凌。おまえが父さんや母さんに会わないようにコソコソしてるから言いそびれてたが、一昨日かいつかに女の子から電話があったぞ。モテるのは結構だが、おまえはまだ自分が十七なのを忘れてるんじゃないだろうな」
 何だそれは。たかが女から電話があったぐらいで、どうしてそんな言われ方をしなきゃいけないんだ。
「一人前の大人のつもりでいるんだろう。だったら大人として責任を持たないといけないんだぞ。相手がどうであれ、責められるのは男の方なんだから」
 ……はあ!?
「何言ってんだよ!?」
 何なんだ、俺がその女をキズモノにしたとでも言うのかよ!?
 呆れ返って凌が絶句しているところに、母親が飛び込んできた。話の前後も聞かずに決めつける。
「凌、お父さんの言う通りよ」
「俺が何かしたのかよ!?」
 四十を過ぎた女にしては背の高い彼の母は、それでも頭一つ分大きい息子を見上げて睨んだ。
「学校はさぼるし、まっすぐ帰って来ないし、子供のくせに女の子とふらふら遊び歩いて、それで何もしてないなんてよく言うわね! お父さんは警察官なんてご立派なのに、息子さんは暴走族なのね、ってご近所の人に言われたお母さんがどんなに恥ずかしかったか、あんたも考えてみなさいよ!」
 俺が、暴走族? ……恥ずかしい?
 十六になってからちゃんと教習所に通って免許取って、バイトで金貯めて買ったバイクに乗ってるだけなのに、どうして近所のくそばばあどもにそんなこと言われなきゃいけないんだ!?
 頭が真っ白になっている凌に、母はますます激昂して、泣き出さんばかりにして言った。
「子供はね、親の言う通りにしてればいいのよ、それが一番正しいんだから」
 うるさい。
 俺の人生だろう。どんな風に何をやるか、決めるのは俺だ。おまえじゃない。
 おまえの思い通りになんかならない。
「返事は? 凌」
 凌は拾った指輪をはめて目を逸らした。
「嫌なこった」
 答えた瞬間、頬がカッと熱くなった。母親が平手で叩いたのだ。
「ごめんなさいは?」
 母親の声を無視して、凌は引きずっていたマフラーを机の上に上げる。もう一発引っぱたこうとした母親の手首を掴んで、父親に向かって突き飛ばした。
「凌!!」
 うるせえ。おまえらの言葉は聞き飽きた。
 凌は今置いたマフラーとバイクのキーを、机の上から取り上げると部屋を出た。母親が追いかけてきたが、握り拳を顔の前に出してやったら彼女は動けなくなった。
 女なんか、クラスでも家でもうるさいばっかりの無力な奴らだ。
 登ってきた時とは裏腹に、激しい足音を響かせて階段を降りると、凌は家を玄関から飛び出した。行く当てなんてどこにもないけれど、これ以上家にいたらますます糸が絡みついて、もう動けなくなってしまいそうな気がした。

                 ◇     ◇     ◇

 出張用の荷物を入れた小さなスーツケースを、運転手が植村の足元から持ち上げる。礼の代わりに軽く頷いて見せると、運転手は側にいた小柄な外科医を大きく迂回して、車へと歩いていった。植村は研究所の入口まで見送りにきていた弦谷を振り返った。
 月明かり、やけにはっきりとドライバーの手袋の白さが際立っている。門灯の明かりにぼんやりと照らされている弦谷は、運転手の素振りに笑っているように見える。
 嫌われていることを、楽しんでいるように。
「私が戻るまで、あれの診察の方をよろしく頼む」
「はい、それは、もちろん」
 車に乗り込んだ運転手がエンジンを掛けると、同時に点いたライトに弦谷の眼鏡がきらりと光る。
「大切なお方ですから、お任せ下さい」
「ああ、大切な実験材料だ」
 この世でただ一人、翼のある女。
 翼そのものの再生機能も、神経と接続してからの経緯も、彼女自身の持つ超能力も、どれをとっても人類にとって意義のある問題だ。何もかもを、細かく、隅々まで知り尽くしたい。
「では、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
 研究とは直接は関係のないドライバーまでが、この外科医の残酷な性癖を聞き及んで、恐れていることは知っている。
 しかし植村は、弦谷のことを気に入っていた。弦谷が明らかに狂っている、人体を切り貼りするのが好きだという事実を、まるで隠していないからかもしれない。
 この胸にある、狂気を、弦谷が身代わりのようにバラまいてくれているから、私は正気を保ち続けている。少なくとも、傍目には。
 植村は後部座席に乗り込み、車が動きだすと目を閉じた。
 あの女の、何もかも。
 細かく隅々まで、私のもの、だ。
 愛しい娘を失った私に、天から遣わされてきた女。
 人類が自由意志で空を飛ぶための研究の、実験の第一号試作品。だが結果がどうであれ、私が彼女を手放すことなど──考えられない。
 でもそれは、研究所の人間には関係ないことだ。
 私のこの執着は、私だけが知っていれば、それでいい。そして、彼女が知っていれば。私が……ていることを。
 車の振動に誘われて、植村はいつしか眠りに落ちていた。夢は見なかった。彼にとって、夢は、起きている間に見るものだった。
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by new-chao | 2005-02-12 14:55 | 小説-Angel(3)

Angel

  もしも家族の誰かが様子を見に来たら、ボリュームを上げ間違えたことにしよう、と言い訳に使うつもりでラジオのスイッチを入れたが、それは不要だったらしい。
 一人残された部屋の中で、ステレオのリモコンを弄びながら、政士は凌が半開きにして行ったカーテンを直すために立ち上がった。だが窓に鍵を掛けるのはやめておく。ラジオからはどういう偶然か、昨日姫の前で歌ったのと同じ、リアン・ライムスの『Howdo I live』が流れている。
 話も聞かずに一方的に怒って出ていった凌に対して、怒る気持ちはなかった。凌は政士にとっては弟みたいなもので、子供の頃から些細なことでよく喧嘩をしては、次の日にはケロリとして一緒にサッカーをしたりしていたし、それに今回は彼の気持ちも判らないではないから。
 凌が……羨ましくて仕方がない。
 あんな風に思いっきり、好きだと顔に書ける凌が。
 政士はまた笑いたくなって困った。誰も見ていないからといって、一人で夜中に大笑いなんかしたらシャレにならない。どうにか笑いを引っ込めて、椅子に座り直し、一口しか飲んでいなかったウーロン茶を口にする。
 姫と係わり合いにならない方がいい、と思ったのは本当だ。あの様子は絶対普通じゃない。普通じゃないのは見れば判るが、犯罪絡みだったとしても、誘拐とか虐待とかとは違う感じがするのだ。自分の勝手な思い込みだけれど。ただこのまま深入りしたら、何か自分たちも抜け出せなくなってしまいそうな気
がするのだ。
 おまえの恋路を邪魔したい訳じゃないよ、凌。いや……ちょっとは、ちょっとぐらいは無意識にそう思ってるかもしれないけど。
 ──あたしはあなたより四つも年上なんだよ、ちゃんと判ってる? 四つも若い男の子となんて、考えたこともないわ。オバサンをからかわないで。
 ふられ男だから、どうせ、俺は。
 政士は手持ち無沙汰に、ラックに戻した雑誌を拾ってもう一度開いた。今日学校帰りに買ってきたのだ。あらかた読んでしまったが他にすることがない。何かしていないと余計なことを考える。──思い出す。
 夕方、姫には会わずに駅へと足を向けた後、ゲームセンターにでも行くという哲明と別れて、別のホームから少し街の中心へ出た。哲明とも友達には違いないが、四六時中一緒にいなければいけない訳ではない。これといって用はなかったが、ここのところ大きな本屋も行ってないし、レコード屋もついでに見て来ようと街をぶらついた。
 先週発売された洋楽雑誌とミステリーの新刊を買って、レコード屋で新譜CDを二・三枚試聴して、親戚の叔母にもらった音楽ギフト券を持ってくるのを忘れたことを思い出して、まあすぐに売り切れるものでもないし今度にするかと店を出て、十メートルも行かないところで、だった。
「政士君!」
 呼び止められてしまったのは。
 政士はゆっくり振り返った。見る前から誰だか判っていたのは、店を出た時、視界の端に彼女の姿が入ったからだ。だから敢えて気づかないふりで行ってしまおうとしたのだ。もちろん相手には関係ないことだけれど。
「あの、あたし……ごめんね、今、急いでる?」
 相変わらずの颯爽としたジーパン姿。ファーのついた短いコートがウエスタン風で、ボーイッシュな彼女には良く似合う。
「いいえ」
 天堂晶子二十二歳。彼の、家庭教師だ。
「良かった、あたしね、月曜日にお家に伺おうかと思ったの。ほら、あたし政士君にCD借りたままだったから、ね、『ザ・コアーズ』のとあと」
 緊張してるのか遠慮してるのか、彼女はいつもより歯切れの悪い話し方をする。本屋の紙袋を持ち直して、政士は晶子の言葉が終わるのを待った。雑踏の中に立ち止まって。
「まさか会うと思わなかったから今は持ってないけど、いつ返しに行けばいい? いつなら政士君、お家にいる?」
「いつでもいいよ。ポストに入れといてくれれば」
 一直線の冷たい口調に、晶子の笑顔が固まった。彼女の後ろに二人、彼女と似たタイプの女子大生が彼女を待っているらしい。政士は二人から晶子に視線を戻して、言い直した。
「家まで来てくれなくても、着払いで郵送してくれてもいいから。いつでもいいし」
「政士君」
 細い指先に、セーターと同じピンクのマニキュア。
「晶、……天堂さん」
 この人やこの人の友達から見たら、俺はどんなに子供に見えるだろう。
 学生服の襟に掛からないように刈り上げた襟足に、履き古したスニーカーはスーパーのワゴンセールで買った安物だ。大学で机を並べてる男とは、比べ物にならないだろうな。俺は車どころか携帯電話も、百円ライターも持ってない。
「俺、推薦受かったよ」
「えっ、……それはおめでとう。何かお祝いしな」
「だから」
 政士は晶子をまっすぐに見て、後ろの二人には聞こえないように低い声で言った。それが彼の優しさだった。
「……何とも思ってないなら、もうどこかで会っても声掛けないで下さい」
 何かを言いかけたまま黙ってしまった彼女に頭を下げて、政士は踵を返した。振り返りたかったけれど我慢して電車に乗って、脇目も振らずに家へ帰ってきたのだ。
 玄関の前で、耐えきれずに後ろを振り返った。
誰もいなかった。
 ……バカじゃないか、俺は。
 政士は缶の半分までウーロン茶を一気に流し込むと、もう一度雑誌を閉じた。表紙では日本で大人気のバンドのボーカルが、やけに冷静に彼を見返している。
 今まで、誘われたら断らないけれど自分からは動かないで、凌は女の子には全然執着していなかった。誰のことも嫌いじゃないけれど、好きでもないと。でも檻の中の、あの子だけが違う。あの子のためになら、凌は止められても動くだろう。スイッチが入ったみたいに。
 でも俺は。
 自分から動くことをやめてしまった。自分で電池を外してしまったから。
 バカだな。
 政士は缶を置いて笑った。手で顔を覆って、声を殺して大笑いした。胸の震えが、別のことをしている時とよく似ているけれど、それに気がついて政士はますます笑った。


 信じられないくらい美しい音楽だった。後ろに聞こえている歌手本人よりも、筆入れをマイク代わりに握りしめて歌う少年の声の方が低く、だからこそ寛く、冷えきったこの体を包み込んでくれる。
 まるで楽園の川のせせらぎ。それとも鳥のさえずり?
 おとぎの国では、雲に乗ってどこへだって飛んでいける。星を取って髪を飾ろう。月のハンモックで幸福な夢を見よう。
 暮れていく空に伸ばされたしなやかな指先、風を受けるマフラー、空にぽっかりと浮かぶ雲まで、配置が決められている映画を見ているみたいだった。夢のようだった。シャボン玉の中にいて、ふわふわと宙を漂っているような気がして、どこまでも無限の自由、涙が出そうだった。
 この歌を知っている。まだあの男の物になる前、よくラジオから流れていたラブソング。英語の内容を聞き取れるほどの耳も、知識も持っていないけれど。
 あなたなしでどうやって生きていけるのか、知りたい。
 あたしは歌うこともできないけれど、耳まで取り上げられなくて、良かった。
 世界には美しい音楽が溢れてる。風の音も、雨の音も、彼の歌声も、あなたの言葉も。
 ……あなたの鼓動も。
 ねえ、あたしの声が聞こえる?


 寝ているに違いない彼女を起こさないように、角を曲がったところでエンジンを切って、凌は下りたバイクを百メートルばかり引いて歩いて、ビルの表までたどり着いた。
 錆びたチェーンが張ってあって、バイクを中には入れられないが、昼間にも誰も来ないのに、こんな真夜中にこの細い道を通る車なんてありはしない。いつ消えてしまってもおかしっくなさそうな、長細い蛍光灯の外灯の光の輪から外れた位置にバイクを置いて、凌はヘルメットを脱いでハンドルに引っかけた。
 夜は静かで、昨日から欠け始めた月が、泣いている訳でもないのに、妙に切なくぼやけている。今夜もウサギはせっせと餅をついているのだろうか、正月用に?
 星がちかちか瞬いて見えるのは、どうしてだったっけ。
 どこか遠くから、消防車のサイレンが風に乗って彼の耳に届いた。マフラーに顎を埋めるようにして、凌はチェーンをまたいで敷地に入る。
 泥で汚れた型押しガラスの内側からは、見る者を不安にさせる非常灯の光。赤い。
 もしもいなかったらどうしよう。
 そんな筈ない、今日の夕方にはいたんだから。あの檻をそのままにしても解体するにしても、そんなに簡単に動かせる訳がない。
 でももしも、もしもいなくなってたら。
 家を飛び出した後、行く先なんてなかった。いくら足掛け十年の付き合いでも、夜の夜中に哲明の家へ行く訳には行かないし、いつもなら真先に行く政士のところも、今はあいつの顔を見たくない。コンビニと二十四時間営業のファミレスで、しばらくは暖まりつつ時間をつぶしたけれど、……足がこっちを向いてしまった。
 彼女は迷惑なのかもしれない。俺のことを好きじゃないかもしれないけど。
 顔が見たくて。それだけでいいから。
 家のことも学校のことも、今は考えたくない。
 凌は空を仰いで、凍った空気を肺一杯に吸い込んだ。爪先に力を込めて、でもなるべく足音は立てないようにアスファルトを蹴って走りだす。ビルの裏側に向かって。
 檻はあった。
 そしてその中から彼を見返す目も。
 姫、と呼びかけかけて、凌は声を飲み込んだ。姫じゃない。真っ黒で満丸な目、雨よけカバーから目と鼻だけを出している、犬だ。
 姫の顔は犬と反対側にあった。凌のコートの上からカバーと犬を一緒に被って、自分の片腕を枕にして伏せている。
 凌は安心して息をついた。まだここにいてくれたのだ。
 規則正しく、彼女の寝息が聞こえている。彼女の足元で丸まっているらしい犬が動いて耳まで外に出たが、吠えようとはしなかった。柴犬だろうか、犬の種類はよく知らないが怒っている様子もないので、凌はしゃがみこんで、そっと檻の中に手を伸ばした。
 小さな手を握ろうとしかけて、思い直してポケットから先刻買ったカイロを出す。冷えきった指に握らせて、その上から手で包み込んだ。
 どんな夢を見てるんだ、姫。ここから出て自由になる夢か。この冷たい檻を壊して。
 俺もだよ。俺も自由になりたい。
 もう片方の手で彼女の髪に触ろうとした時、微かに彼女の睫毛が震えた。ゆっくりまぶたが開いて、深紅に見える瞳が彼を見た。
 姫、と呼びかけようとしたが声が出なかった。
 握っていた手を離そうとしたができなかった。彼女が身を起こして、握られたままの手の中のカイロに気がついて、凌を見返して、──笑った。
 手の届くところにある、この世で唯一の宝石。
何故か泣きたくなって、凌は地面に膝を着いて姫の手を引き寄せて、抱きしめた。それだけが彼女の存在を確かめる、たった一つの方法のように思える。触れていなければ消えてしまう、幻の女。ここにいると言って欲しい。どうか、俺の側に。
「遅くなってごめん……」
 姫がどんな顔をしたかは見えないけれど。
 檻を掴んでいた彼女の手が俺の背中に回ったから、返事は判る。
 凌は喉の震えを堪えて、抱いた腕に力を込める。彼女の背中に当てた手のひらに何か固い物が触れて、ひょっとして昼間の医者が付けていったのかも、と彼は手の位置をずらした。病気、という言葉が一瞬だけ頭に浮かんで、すぐに消えた。
 姫、俺は。
 おまえがどこの誰でも。
 ここにいてくれて……嬉しい。本当に。何も言ってくれなくても、いてくれるだけでいいよ。
 俺が女相手にこんな風に思える時があるなんて、知らなかった。      (4)ヘ続く
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by new-chao | 2005-02-12 14:52 | 小説-Angel(3)