カテゴリ:小説-Angel(2)( 4 )

Angel

     2.  彼の温度

 楽々と左手一つで両方の手首を押さえ込んで、重たい体が乗しかかってくる。質のいいネクタイが彼女の喉に垂れ下がって、彼女は奥歯をかみしめた。手さえ自由になっていたら、ためらわずにこのネクタイを絞め上げてやれるのに!
 女の本当の危機の時には、大声なんて出ない。出せない。恐ろしくて、悔しくて、……恐ろしくて悔しくてただもがくだけだ。全身全霊で拒絶して、力の限り抵抗するだけだ。
「おまえの使い方はまだ決めていないが」
 目で火がつけられればいいのに。そしたらこんな男、部屋に入った瞬間火ダルマにして、骨も残らないくらい丹念に灰にしてやる。
 太っている訳ではないが、大柄な植村の体は重い。体重は彼女の倍近くあるのではないだろうか。十四歳の華奢な少女と、四十八歳の元レスリングの選手では、体力勝負の軍配は男に上がる。
「取り敢えず男が、若い女に一番最初にさせることとしては、これが妥当だろう? どうせもうすぐ喋れなくなるんだ、今夜一晩ぐらいいい声で啼いてみせろ」
「誰が……!」
 逃げる間もなく、ベッドに突き倒されて手首を掴まれて、一瞬にして喉元にせり上がった恐怖から逃れようと、暴れる足も虚しく植村の下に敷かれてしまう。
 ここへ連れて来られる前の家と比べれば、何もかもが新しく、美しく、満たされて、生活レベルが段違いのこの部屋のベッドは、一人で眠るには広すぎる。だが広すぎるからといって誰かと──この男と寝るなんて真っ平だ。一生眠らない方がずっとましだ。
「あんたなんかの好きにはさせないわ。死んだ方がましよ」
 空いている右手でネクタイを解いて、襟から引き抜きながら植村は笑った。
「オジサマにパンツ売って稼いでる世代の女にしては、可愛いことを言うな。親の躾けが良かったのか、それともおまえ処女なのか?」
 男を睨み付ける彼女の目つきが鋭さを増し、言葉よりもはっきりと肯定を表した。正直な反応に、植村は微笑を深くする。
「そうだろうな、経験の浅い若造や、普通の男なら、おまえみたいなキワモノには手は出せんさ。一億二千万もいる日本人の中で、ただ一人の赤い目の女」
 冷たい指が耳から頬へ、そして顎へと彼女の顔を撫でる。嫌悪感に総毛立った産毛を、愛おしむように何度も。
「恨むのなら自分の親を恨め」
「あたしの目が赤いのはあたしのせいでも、あたしの親のせいでもないわ」
「そして私のせいでもない」
 切って捨てるような、容赦ない言い方に、彼女は一瞬目を伏せた。
 握られた手首が痛い。血の流れが滞って、指先が冷たく痺れている。
 男の右手が頬を離れて、彼女のスカートの中にもぐり、彼女はうめき声を堪えてもがいたが、胸まで胸で押さえ込まれて動けなくなった。鼻が触れ合うほど近くに寄せて、これ見よがしに見下ろしてくる植村の目を、彼女は怯まずに睨み返す。
「……そうだろう?」
 ブッ、と彼女は勢いよく彼の顔めがけて、唾を吐きかけた。
 内股から手が離れたので、殴られるかと彼女は覚悟したが、植村はただ頬を拭っただけだった。目を伏せて、悪戯好きの子供を叱る父親のような顔で笑う。それから楽しそうに、彼女のブラウスのボタンを外していった。
「おまえは私には逆らえない、何故ならおまえは私の物だからだ。だから今しばらくは、その憎まれ口も許してやろう。気の強い女は好きだ」
「あたしはあんたの物になんかならない」
「ならないのではない」
 同じ手で自分のカッターシャツのボタンを外して絨毯の床に脱ぎ捨てると、難なく抗う彼女の顎を捕らえ、植村は余裕たっぷりに彼女の唇を塞いだ。二度と開かないと思えるほどきつく閉じた彼女の目から、涙が耳へと滑り、シーツに染みを残した。
「もう既に、私の物だ」
 ──不意に、上に乗っていた男の体が消えた。
 手首の痛みがなくなり、ホッとしたのも束の間、気配もさせずに枕元に現れた、小柄な外科医弦谷の手に握られている輝くメスを見て、彼女は悲鳴を上げようとした。けれど声が出ない。体に力が入らない。
「麻酔が効いていますから、逃げようとしても無駄ですよ」
 広すぎるベッドは広すぎる手術台に、体の自由を封じるのは男の体ではなく薬に。いつの間にか変わって、相変わらず彼女を縛りつけている。
「大丈夫、私は上手ですから。若い女性の体に傷痕を残したりなんてしませんし、痛みもないですよ。あったところで、痛いのは私ではなくてあなたですから、私は構いませんが」
 何をするつもりなの。
 わななくだけで言葉にならない唇を、弦谷の手袋の指が閉じさせて、冷たいメスの切っ先が剥き出しの喉に触れる。
 確かに痛みはないけれど、意識もどこまでもはっきりしていて、動けないから天井しか見えない筈なのに、見える。銀の刃が横一文字に喉に残す、朱色の線が。切り開かれた傷口から溢れ出ていく、おびただしい血が。
 鮮血が体の上を流れて、シーツを染め変えて、部屋中が海になる。
 ……死ぬわ。
「死にませんよ、私は上手ですから。言ったでしょう」
 見開いた両目から、滝のように何かが流れて行くのが判るけれど、それが涙なのかどうかは判らない。髪も、爪の先も、流れ出た血が入り込んでくる気がする。
 この部屋の絨毯が赤いのは、きっとこのせいなんだ。
 あたしの目が、赤いのも。
「ただ余計なことを話さないようにしろと、植村先生が言われるんでね。さて、これで良し、と。……次は目を除去しましょうか、不要な物を見ないように」
 血に染まった刃が瞳に迫った。禍々しく、美しい光。この世から総ての光を奪い去るものだ。
 気を失ってしまえればいいのに、そうすれば何も感じずに済むのに。
 やめて。
 取らないで。突然変異の、奇形の、不気味な、人間とは思えない呪われた化け物の目でも、これはあたしの目なの。他の人と変わらずにちゃんと見える、大事な目なの。やめて。
 やめて。来ないで。
 やめてやめてやめてやめて……いっそ、殺して。
 殺・し・て。


 パリン、と遠くでガラスか何かが割れたような音が聞こえた。はっ、と彼女は目を開いた。彼女の手を握っていた誰かの手が、バッと離れた。
 垂れ込めた厚い雲に、遠くから救急車のサイレンが不安定に響く。
「ごっ、ごめん、驚かせた」
 聞き覚えのある低い声に、彼女はもう一度しっかりと目を開き直して、鼻まで被っていた雨よけカバーをずらした。丸まって眠っていた彼女に合わせるようにしゃがみ込んで、傘を差した手を持ち替えて、彼女の顔を覗き込んでいるのは。
 ……真壁、凌。
 そうだ。夢だった。
 あたしは目を取られたりはしなかった。全身麻酔で眠っている間に声を奪われたのは、事実だけれど。
「起こして、ごめん。夜になって雨が降りだしたから……気になって。今、真夜中だ。家を出たのが十二時ちょうどだったから」
 彼女はゆっくり身を起こして、床に座り直した。幸い、雨はまっすぐに降っているので、床も自分もまだ少ししか濡れていない。
「これ、着ろよ」
 凌は着ていた黒いハーフコートを脱いで、檻の間から差し出した。
「来てみて良かった、そんな自転車のカバーなんかじゃ寒いだろう。震えてる」
 震えてたのは夢のせいよ。
 手を出さない彼女に業を煮やして、凌は彼女の手首を掴んで無理やりコートを持たせると、怒ったように言う。
「俺は男だから平気だけど、そんな恰好じゃ、姫、風邪引いちまう」
 姫、と凌が彼女を呼んだ。
 家族と離れてから初めて自分のことを、おまえ、以外の言葉で。誰も呼んでくれないから、名前なんてとっくに忘れてしまっていたのに。
 ビルの表側でぼんやりと通りを照らしている外灯の光で、月のない夜の闇の中、それでもどうにか、凌の姿が見える。
 ハイネックのセーターにスリムジーンズ、傘を持つ右手の中指には、ごついデザインの銀の指輪がはめられていて、大きな男の手によく似合っている。
姫は立ち上がって、渡されたハーフコートに腕を通した。凌は植村よりもまだ背が高い。袖は指を伸ばしても余るくらい長くて、丈も彼女が着たらハーフではなくなってしまった。大きくて少し重くて、……暖かい。
「学校の行き帰りに毎日着てるから、臭いかもしんねーけど」
 姫は首を振った。確かに整髪料か何かの匂いはするが、嫌な匂いではない。植村とは違う、もっと爽やかで若々しい匂いだ。
 若いに決まってる、高校二年だと言っていた。同い年だ。本当なら自分も、彼と机を並べていたかもしれないのに。
「あ、これ、傘も」
 彼女に合わせて立ち上がり、差して来た傘を閉じて檻の中に入れようとするので、姫は慌てて凌の手を押し戻した。コートを貸してもらった上に傘まで借りたら、凌の方が風邪を引いてしまう。
 夜になる前に凌たちがそれぞれの家へ帰った後、彼女の様子を見に来た弦谷に一度外に出してもらい、雨が降ってきたのでまた檻に戻された。太陽の光に当たりたいと言ったのは自分だし、植村はそれに乗じて、翼が再生するまでここに入れておくつもりでいるらしい。
そんなことは平気だわ。ずっと部屋の中に入れられているあたしには、冬の空気の冷たさも、もちろん寒いけど、堪えようとしてもどうにも震えが止まらないけど、でも新鮮で、雨の匂いも風の音も懐かしくて嬉しい。植村の酷いことには慣れてるし、あいつのやりそうなことなんて判ってる。どんなに辛い目に合わせても、あの男があたしを殺すなんてもったいないことは、絶対にしないことも。
 姫は先刻凌が自分にしたように、檻の間から手を出して、彼の手首を押さえて無理やり傘の柄を掴ませた。長い前髪の向こうから、凌が彼女を睨む。
「俺はバイクだから、傘はいらねえんだよ。あっても邪魔なだけだ」
 何かを探すように、凌はジーンズのポケットに手を入れる。姫も何気なく借りたコートのポケットに手を入れると、固い物が触った。見なくても判った。バイクのキーだ。
 気がついたらしく凌は絶句して、だがさり気なさを装ってポケットに手を突っ込んでいる。姫は笑った。
 手の中に握ったキーを、そっと差し出す。
「あ、……どうも」
 凌はバツが悪そうに、キーを受け取りざま前髪を掻き上げた。彼の顔をはっきりと見上げて、見つめたまま姫は息を止めた。
 日本人なら当たり前の黒い瞳。
 包み込む柔らかい闇の色。穏やかな夜。
 でもなんて……優しい目をしてるんだろう。
前髪で隠しておくなんてもったいない。彼の目は、まるで……。
 まるで何かのよう、と思おうとして姫は失敗した。美しい宝石も、珍しい花も、たとえられるようなものをここ三年見ていない。それ以上に、美しいと、思うようなものを。
 どうして優しくしてくれるの。
 くっきりした凛々しい二重の目、筋の通った高い鼻、清潔そうな口許。あなたはとてもハンサムだわ。きっとあたしなんかと並んだら、全然釣り合わないね。あたしはもう、自分がどんな顔をしているかも思い出せない。思い出したくもない。
 あたしはあなたみたいに、綺麗な目は持ってない。あたしには、あり得ない、恐ろしい紅の瞳。紅の……力。
 あたしなんかと係わらない方がいい。もしもあたしのせいで、もしもあなたに何かあったら、あたしは。
 バサッ、と不意に凌の手から、閉じたままの傘がアスファルトに落ちた。
 姫が動くより先に、檻の間から入った凌の腕が彼女の背中に回り、強く引き寄せる。はっとして姫は目の前の鉄棒を掴んだ。前髪に凌の息が掛かった。姫は目を閉じた。
 ゆっくりと……うっとりと。
 少し離れた大通りにも、真夜中には車も通らない。雲に包まれた群青色の空の下、まるで二人きり。
 冷たい鉄の箱越しに伝わる、凌の鼓動、温もり。これが優しさの匂い。
 会ったばかりだけど、判る。きっと間違ってない。凌だけはきっと、きっとあたし、の……。
「逃がしてやる」
 あたしのことを何も知らないのに、この奇形の目を怖がりもしないで。それだけで充分なほど。
「必ず自由にしてやる」
 ありがとうの一言も言えないあたしを。
「必ず、俺が──……」
 祈るのは愚かなこと。
 この世には神様なんていない。
 そう思ってはいても、姫は祈らずにはいられなかった。暖かい胸に顔を寄せて、凌が自分のために傷つくことがないようにと。
 もしも偶然ではなくて、自分が、彼とめぐり逢う運命にあったのならば。
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by new-chao | 2005-02-10 10:09 | 小説-Angel(2)

Angel

                ◇     ◇     ◇

 夕方、凌と政士と哲明の三人が家へ帰るまで、つまり弦谷がここへ現れるまで、彼らと姫は自己紹介を兼ねていろいろな話をした。と言っても、もちろん喋っていたのは少年たちだけで、姫は身振り手振りか、頷くことぐらいしかできなかったのだけれど。
 若々しくて明るい声が雲を散らせたのか、切れ間から太陽が眩い光で天を覆う。三年振りに聞く植村の関係者以外の、中でも同年代の少年の言葉は、植村や弦谷とはまるで違って、優しさに満ちている。明るいけれど目の痛まない、今の空と同じ、淡く自然な雰囲気で。
「それにしても、見つけたのが俺たちで良かったな」
 見るからに暖かそうな、綿の詰まった上着を着た哲明は、目がクリッとしていて陽気そうで、彼女と一つ違いの弟に似ているような気がした。年齢よりもどことなく幼くて、可愛らしい。
「さっさと女追っ払ってバイク取りに来て正解じゃん、女って何かっちゃギャーギャーうるさいし」
「誰だよ、先刻もっと優しくしてやれっつったのは」
「それは俺よ」
 凌の冷たい言い方もどこ吹く風、哲明は堂々と胸を張ってみせる。
「女の子には優しくしなきゃだぜ、なあ姫? 可愛い子なら特によ。ま、姫はちょっと珍しいタイプだけ」
「江藤」
 政士が鋭く遮って、哲明を睨んだ。失言に思い当たって、哲明が口を噤む。姫はまだ潤んでいる目で哲明を見た。
 凌以外の二人は、檻から一メートルぐらい離れたところに立っている。得体の知れない檻の中身には、それ以上近寄らないのが常識だ。姫だって、もし逆の立場ならそうする。いや、そもそも係わらないだろう。
 あたしが突然変異の、珍しいタイプの女なのは、事実。だから悪いと思ってくれただけで嬉しいから、謝らなくていいわ。
 だが彼女に直視されたのが恐ろしかったのか、それとも単に彼女の心の声が聞こえないからか、哲明は癖のある茶色の髪を掻き上げて、屈託なく言った。
「ごめんな姫、俺、よく無神経って言われるんだわ」
 でも彼女から目を背けない。
「けどさ、政士も一つしか年食ってないくせに、妙にオヤジだと思わん?」
「オヤジって言い方ないだろう」
 学生服の中にベージュ色のタートルネックセーターを着ている政士は、中肉中背で、フレームのない眼鏡が特に生徒会長風だ。頼りになりそうで、二人のお兄さん役らしい。
 にしても、哲明は髪を染めているらしいし、凌も前髪を長くしていて、彼女が学校に通わなくなってからの三年で、校則はなくなってしまったのだろうか。
「やっぱ親のせいかな。姫、信じられる? 政士も凌も、パパは警察なんだぜ。なのに片方は一見優等生で実は裏のカオを持つ男で、もう片方は見たまんまの不良でしょっちゅう学校さぼるしさ、親不孝な奴らだよな」
 警察官なんて、立派なお父さんの家に生まれたのね。あたしの父とは大違いの。
 姫がすぐ前の凌を見上げると、凌はフイッと目を逸らして、ずっと握っていた手を檻から離した。
「親は関係ない」
 氷のような低い声に、姫は彼をまじまじと見たけれど、目が合わない。
「そんな言い方するなよ。関係ないことないだろ、親父が職場の同僚だったから、俺たち十七年の付き合いなんだぜ」
「それとこれとは関係ねーよ」
「まあまあ、二人とも。特別ゲストの前で揉めるんじゃないよ、なあ姫? これだから男って嫌よね」
 政士と凌の間に哲明が割って入り、姫におどけた言い方をする。
「ちなみに俺んち宝石屋だから。ご入り用の際は一声かけて、会員になればなおお得、入会金も年会費も一切無料です」
 気を使って冗談を言っているのか、それともこれが地なのか。閉じ込められている女に向かって言うにはちょっと残酷だが、哲明の口調にはトゲがない。だから姫も素直に頷く。
 ありがとう、いつかね。
「何こんなところで商売っ気出してんだよ、おまえは」
「俺はおまえと違って親孝行な息子だから」
「よく言う……オラッ」
 凌はコートのポケットに両手を入れると、肩で哲明にぶつかって行った。哲明は大袈裟によろける。
「うわぉ、何すんだよ……っと」
 哲明がぶつかり返し、また凌がやり返し、やめろよと政士が口を挟む。
「おまえら、今時小学生でもやらないよ、そういうこと。……本当、ガキのお守りは大変なんだよね」
「んだよ政士、一人だけ大人みたいなこと言いやがって」
「こうしてやる」
 凌が政士の真後ろに回って膝をカックンと押したので、政士は情けない声を上げて座り込みそうになった。やりやがったな、と逃げだした凌を追いかける。後はめちゃくちゃで、三人はそれぞれのカバンを地面に放り出して追い駆けっこをした。誰かが誰かに体当たりして、お返しに誰かをくすぐり、走り回って、まるで体だけ大きくなった小学生のように。
「姫、た、たしけてぇ」
 檻に手を伸ばして走ってきた哲明は、何もないのに一人で勝手にすっ転んだ。
「ってえーっ。ばーかっ」
「バカはおまえだよテツ」
「見ろよ、姫に笑われちゃったじゃんか」
 哲明に言われて、初めて気がついた。
 ──笑ってる。あたし。もう笑い方も忘れてしまったと思ってたのに。
 胸の奥から、自然に沸き上がってくる何かを思い出す。失くした訳じゃなかった。まだここに、眠っていたんだ。
 三人はそれから学校で起こったことや、互いの失敗談を暴露し合って、姫を笑い転げさせてくれ、その後哲明と凌は、クリスマスに開かれるストリートダンス大会でやるつもりだという踊りを見せてくれた。本当は別の学校へ通っている中学からの友人と六人のチームで、二人しかいないのと、こんな場所でや
ることに凌は渋っていたのだが、見たい、という姫の熱烈な視線に、しょうがなさそうに判ったよと頷いた。
「判ったよ、でも音楽がないぜ」
「あるじゃんか、ここに、歩くジュークボックスが」
 思い切り指を指されて、政士は二人の顔を交互に見る。
「俺? ……ならここに百円入れろ」
「はい、入れましたっと。あ、姫にはこっちね」
 哲明が政士のポケットに入れたのは、上着のポケットから出した板ガムで、姫に放ってよこしたのは大きなレモンキャンディだった。
 ガムを前歯で引っ張り出して口に入れると、政士はちらりと姫に目をやって、スニーカーの踵でリズムを取りながら歌い始める。姫は初めて耳にする最新ヒット曲のアカペラに、年下の二人は顔を見合わせて笑った。檻を握った彼女の手に、知らず、力がこもった。
 風に乱される髪も、伸ばした指の先も。なんて自由なんだろう。軽く弾ませるステップの一歩から未来が広がって、聞こえない筈の楽器の音まで、政士の声の裏に聞こえるような気がする。伸びやかで、爽やかで、果てがなくて……青空みたいだわ。
 姫は檻から手を離して、深く息を吸った。あの部屋の中では息苦しくて、深呼吸なんかしたら肺の中まであいつに染まってしまいそうで……胸いっぱいに吸い込んだことなんてなかったけれど、ここには風と太陽と、手の届きそうなところに人の形をした青空がある。植村はいない。
 束の間の、でも紛れもなく、自由。たとえ鉄の箱の中でも。
 いやいやだった割りには楽しそうに踊る凌が、乱れて目を覆う前髪の下から姫を見た。視線をまっすぐに受け止めて、彼女は微笑する。後奏をラララと歌う政士も、得意そうな顔を彼女に見せて、彼女が檻の間から手を出して拍手しようとした、その時。
 姫は耳がいい。いや、というよりは、虫の知らせに敏感だというべきか。
 大通りを走る車の中に、聞き覚えのあるエンジン音が混ざっていることに、彼女は気がついた。足音を忍ばせて来るような低い音が、外科医弦谷の車であることにも。あの男はほとんど毎日彼女の暮らしている部屋に──植村の研究所へやって来るのだ。聞き違える筈がない。
 弦谷と彼らを会わせてはいけない。
 彼女は出していた手を下に向けて、三人に向かって追い払う仕種をした。拍子抜けした哲明が、およ? とよろめいて見せる。
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by new-chao | 2005-02-10 10:06 | 小説-Angel(2)

Angel

「なんだ姫、気に入らなかった? やっぱ下手かあ」
 違う、そうじゃないわ。
 姫は首を横に振って、彼らが歩いて来た土手の方を指さす。どうすればうまく伝えられるのか判らないので、近寄ってきた凌の肩を押しやった。
「なんで押すんだ?」
 なんでと言われても答えられない。
 姫はいっそうグイグイと凌の肩や胸を押して、自分から遠ざけようとする。何を揉めてるのかと近寄ってくる二人も同じように、手で追い返す。それしかできない。
 お願いだからもう行って。あいつが来ないうちに。
「……帰れ、って言ってんのか」
 凌の言葉に、姫は何度も頷いた。
 歌も、踊りも、とっても素敵だった。もっとあなたたちの話を聞いていたいけど、もう駄目よ。時間切れだわ。あいつにみつかったら、あなたたちをどうするか判らないから。あたしは、あなたを守ってあげられない。
「なら帰るけど、ここから出してやるからな、絶対」
 哲明が右手の指を二本揃えてこめかみに当てると、敬礼するように軽く振った。
「じゃあね、姫」
 政士と凌も同じように手を振る。子供の頃テレビで見た特撮ドラマのヒーローのような、それが彼らのさよならの合図らしい。姫も真似をして手を振った。
 車の音が近づいてくるのに合わせて遠ざかっていく後ろ姿を、姫は見えなくなっても見つめていた。これが今だけの、夢でも構わないと思いながら。


 でも凌は再び現れた。
 あれがその場の思いつきで口にした言葉でも、その思いつきだけで良かったのに。背中に回された彼の腕の温もりが、まだ残っている。
『明日、また来るから』
 耳元で言った彼の声も、はっきりと。
 凌はもうここにはいない。彼女を一人きり雨の中に残して行くのを気にして、何度も振り返りながら、バイクで帰った。ガンとして傘を受け取らない彼女がハーフコートを脱ごうとするのを、掴みかからんばかりの勢いで押し止めて。
 ガサッと不意に草が音を立てて、姫はびっくりして目を凝らした。植村がこんな雨の真夜中に、わざわざ草むらから現れはしないとは思うが、凌の筈もないし、それ以外の人間だった場合にはどうすれば……。
 現れたつぶらな瞳に、姫はホッとして息をついた。犬だ。子犬というほどでもないが大きくもなく、全身茶色で柴犬っぽいが尻尾だけがコリーのようにふさふさしている。泥まみれで、痩せていた。目に凶暴そうな色はない。
 姫は冷えきった床に座り直すと、檻の外に出しておいた、先刻弦谷が届けてくれた夕食の弁当箱を取って、残り物を犬に見せた。肉を一切れ投げてやる。砂は付くが、ゴミを食べるよりはましだろう。
 おいで。怖くないよ。何もしない。
 言えない代わりに目で訴えつつ、姫は弁当箱を地面に置いてやった。犬は警戒しながら落ちた肉の匂いを嗅いで、チラチラと姫を気にしながら食べると、よろよろと近づいて来て弁当箱に鼻を突っ込んだ。残り物だから量は少ない。間もなく食べおわった犬は鼻から口の回りを綺麗に舐めて、姫の顔を見上げた。
 日本人と同じ黒い犬の目に、自分の顔がどう映ったかは判らない。他の人とは明らかに違うということに、気がついたかどうかは。だが、恐れていないのは確かだった。姫が手を差し延べても、身を引こうとはしない。
 姫はそっと、濡れた頭を撫でた。犬はゆっくり尻尾を振って、小さな頭を手に押しつけてくる。外にいるともっと濡れてしまうからと、姫が自分の座っている床を軽く叩いてみせると、犬は人懐っこくするりと檻の中へ入ってきた。彼女のすぐ隣に丸くなる。首輪はしていないが、はめていたような跡が残って
いるので、誰かに飼われていたことがあるらしい。
 人から捨てられた犬と、人に飼われてる人間、か。なんかお似合いね、あたしたち。
 姫は雨よけカバーを犬の背中に被せてやった。
 自分が明日を待つことがあるなんて、……思っても見なかった。死ぬことも許されない毎日なのに、早く、朝が来ればいいなんて。
 ここから出られるとは思ってないわ。ただもう一度会いたいだけ。あの人の顔を、もう一度見たいだけ。
 雨足が強くなって、彼女を打ち砕こうとするような激しさで、鉄の天井に降り注ぐ。でも、怖くない。
 ハーフコートの前を掻き合わせて、姫は襟に頬を埋める。優しい彼の匂いに、彼女は目を閉じて微笑した。

   ◇     ◇     ◇

 夜の間中降り続いた雨が空気を洗って、いつもより日差しが眩しい朝だ。
 日当たりのいい教室の、一番後ろにある自分の席で、二時間目の用意をするために黒板横に貼ってある時間割表を見て、政士はつい深いため息をついた。隣の席に座っていた女の子が、大丈夫かと言いたそうな顔で覗き込むので、何でもないと首を振っておく。
 実際、大学は決まったも同然だし、この後あまり浮かれまくって変な成績を取る訳には行かないが、今まで通りにしていれば問題ないだろうし、この教室にいる生徒たちの中で、政士ほど受験ノイローゼから遠い位置にいる人間はいないだろう。自分は運が良かった。努力だってもちろんしたが、受験にも運は関係ある。
 なのに何でこんなに暗くなってるんだ、俺は。
 英語の教科書とノートと辞書と参考書と単語帳を揃えてドカッと机の上に出して、またしても政士はため息をついてしまった。律儀にこんなにたくさん積んでおく必要ももうないと言えばないのだが、急に使わなくすると、まだ勝負はこれからのクラスメートに対して厭味なような気がするので、出すだけは出しておく。隣の女子は、触らぬ神に祟りなしとばかりに席から離れて行ってしまった。
 今日は火曜日だ。
 ということは、昨日は月曜だった。月曜ということは、そうなのだ、何だか妙な物を見つけてしまったお蔭で、忘れるとはなく忘れていたが。
 昨日は家庭教師の日だった。四月の第三週月曜から毎週、ほとんど欠かさずに七時半から九時半までの二時間、彼は大学生について受験勉強に精を出していた。
 別に自分から、つけて欲しいと親に頼んだのではないが、小学生時代からこっち、ピアノ教室以外の、学習塾、通信講座、予備校の夏季冬季講習なるものを一度も受けたことのない息子を、心配したのか不憫に思ったのか、親がさっさと見つけてきて彼にあてがってくれてしまったのだ。
 最初は確かに、知らない年上のチャラチャラした女子大生に偉そうに指導されるなんて冗談じゃないと思った。だが想像とは違い、現れた彼女は薄化粧の颯爽とした感じの女で、政士が質問するまでは自分から余計なことを話しかけず、自分のレポートか何かを書いていて邪魔になることもなく、自分が年下であることをバカにしたりもしなかった。
 性別が違って年も離れてるのに、まあ向こうが合わせてくれていたのだろうが話も合って、家庭教師の日は楽しみになった。彼女に会うのが楽しみだった。
 先週、までは。
 政士はこれ以上ため息をつかないために、腕で顔を覆って机に伏せた。眠い訳ではないが目を閉じる。
 彼女は今年四年生だから、政士が大学へ通い出す春からは、もう大学にはいない。だからもう、本当に、ふとした気まぐれな偶然でもない限り、彼女に会うことはない。それは当然だ、自分が言ったのだから。もう来てくれなくていいと。
 しょうがないじゃないか。そう言う以外に何を言えば良かったんだ。あの人から見れば俺はガキかもしれないけど、俺は十八の男だ。子供じゃない。子供じゃない。子供じゃない子供じゃない子供じゃな……。
 いつからか苦しかった。話すのは楽しいけれど、顔を見るのは嬉しいけれど、閉めきった俺の部屋に二人きり、うっかり同じペンを取ろうとして手が触った日には心臓が口から飛び出してきそうで。
 いつまで隠しておけるだろう。いつまで我慢できるだろう。彼女はまるで俺を警戒していない。たとえ台所に母親がいたって狼は狼だ、すぐ変身できてしまうのに、あの人は自分が羊だってことにも気がついてなかった。だから、だから余計に苦しかった。考えないために必死で問題集をやった。すんなり試験
にパスできたのは彼女のお蔭だ。皮肉なことに。
 不意に、がばっと政士が身を起こしたので、ノートか何かを取りに戻って来ていた隣の女子は、焦って机の上の物を全部落としてしまった。俺のせいかな、と思いはしたが、直接手を下した訳でもないので、黙って見ているだけにした。
 もしも、どうかしたの? と訊いてきたら、ふられたんだって言ってやろうか。本当のことだし。
 政士は伏せた拍子についてしまった前髪の癖を直して、変に思われることは承知で笑った。どうかしている。この思いつきも、今笑っている自分も。
 隣の席の子が話しかけてくる前に、政士は立ち上がって教室を出た。たった十分間の休み時間に行ける場所なんて、トイレぐらいしかない。
 でも昨日見つけたあの子には、十分の休みもないんだ。
 あの檻の少女のことを、父親に報告した方がいいのだろうとは思う。だがまるで事情が判らないし、もう少しぐらいは様子を見てもいいだろう。そう、今日はいなくなってるかもしれないし。
 あの子も誰かを好きになったことがあるだろうかと、ふと思った。
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by new-chao | 2005-02-10 10:01 | 小説-Angel(2)

Angel

 凌は大欠伸をしながら冷たいアルミの手すりに凭れて、三階のベランダから駅の方を眺めた。彼の通う高校は高台にあるけれど、市の中心を外れた住宅街の一角にあるので、住宅に阻まれて駅の側の小さなビルまでは見えない。
 一日の授業が終わるまで、あと三つもある。死にそうに退屈で無駄な時間だ。政士みたいに本読んだりパソコンいじったりするのが好きな奴は、好きなだけやればいいが、そうじゃない奴まで年齢だけでまとめて前向いて座らせとく、なんて、俺には全然意味がない。時間の無駄だ。早く自由になりたい。
 あの子は……今何してんだろう。
 凌は伸びすぎの前髪を掻き上げて、また大欠伸した。
 今朝は無理やり学校まで姉の車で送ってこられてしまったので、あのビルの裏を見に行けなかった。朝バイクのエンジンがかからないと思ったら、ガソリンが抜かれていたのだ。くそ親父のやりそうなことだ。すかさず、送っていくわ、なんて言った姉貴もグルだったに違いない。夜中に出掛けたのが気に入らないのだろう。足がなければどこにも行けないと思ってるのか。
 そんなことまでして、どれだけ俺を縛れば気が済むんだ。どいつもこいつも俺の前に立ちふさがりやがって、俺の邪魔をする。俺が何をやりたいのか、俺にもよく判らないけど。
 と、不意に後ろから誰かがしなだれかかって、凌は手すりに胃を押しつけられた。
「ぐぇ」
「休み時間にベランダに出るなって、先週言われたばっかだろ、凌ちゃん。落っこちたらどーすんの? 痛いよ」
「おまえを落としてやろうか、ばかテツ。重てえよ」
 学生服の下に恥ずかしげもなく真っ赤なトレーナーを着た哲明は、悪びれずに横から凌の顔を覗き込む。
「凌が何考えてるかなんて、俺はとっくにお見通しだぜ、なんせ小学校ん時から足掛け十年の腐れ縁」
 凌はすっかり擦れてテカテカしている制服の肘を手すりについて、空いている右手を哲明に差し出す。哲明は上着のポケットを探って、梅キャンディを渡した。男のくせに甘い物好きな哲明は、よくクラスの女子に飴やガムをもらうのだ。
「本気でいかれちゃったんだろ?」
 プッ、と歯で破った飴の袋を下の花壇に向かって落とすと、凌は鼻で笑った。
「……俺が? 誰に」
「カゴの鳥の白雪姫にだよ」
 人魚姫じゃなかったか、と突っ込みかけて凌は言葉を飲み込んだ。イエスと答えたことに取られかねない。
「そんな訳ねーだろ」
 凌は飴を口に放り込んで、途端に顔をしかめた。めちゃくちゃ酸っぱい。苦情を言ってやろうと笑っている哲明を睨んだ時、三時間目の始業のチャイムが鳴った。
「さーって、次はスーガクかあ。昼寝でもするか」
 先に教室に戻る哲明を後ろから蹴る真似をしながら、仕方なく凌も窓際に自分の席に着く。飴の酸っぱさで目は覚めたが、数学の授業はまるで知らない国の言葉だ。意味は判らないし、自分の生活に関係もない。
 空はあんなに晴れてるのに、どうして俺はくそじじいのくだらない話を聞いてなきゃいけないんだ。ログもシグマもNがマイナス1だろうが、どうでもいいだろう。俺と同じぐらいの年の女の子が、雨の中狭い檻に閉じ込められてほっとかれてるのに、サインコサインでどうやって助け出せるんだ? みんなで
同じようにノートに記号書き写しやがって、てめえらは何も判ってない。
 凌は奥歯で飴をがぎっと砕いた。
 手跡と引っ掻き傷で曇った窓ガラスの向こうに、姫の顔が見える気がする。眠っているところをつい握ってしまった細い手も、抱きしめた温もりも、他の女とどこも違わなかった。目の色だけがあり得ない紅で、でも流した涙は俺たちと同じ色だった。いや、俺たちよりももっと、透明な輝き。
 凌は窓から教室の中に視線を移した。ノートを取っているふりで手紙を書いたり、漫画を読んだり、次の英語の宿題を写したりしているクラスの女は、ほとんどが顔を塗っている。本人たちはこのうえなく真剣に、美しいつもりで。
 ブスだな。おまえら。
 凌は出かけた何度目かの欠伸をギリギリで飲み込んで、どれもこれも同じに見える女たちから目を逸らす。
 たかだが十六・七でそんなに化粧なんかしなくてもいいのに、そのぐらいしか考えることねーのかよ。俺だってそりゃ、真面目にやりたいことなんてねーし、大学にも別に行きたくもない。親父と同じ警察学校なんて、思うだけで吐き気がするし、でも将来のことなんて考えられないけど。面倒だし、何もかも
無駄みたいだし。
 でも、あの女だけが違う。
 どこにいても、雑踏ですれ違っただけでも、きっと彼女には気がついただろうと思う。
 彼女は今もあそこにいるのか。汚いビルの裏に行けば、今日もまた会えるだろうか。もしももういなかったらどうしよう、どうすればもう一度会えるだろう。俺のこともう忘れたなんてことはないよな、昨日の今日だし、覚えてない筈はないと思うけど、でもあの子は本当にあそこにいたのか、赤い目の女の子
なんて、夢だったんじゃ──。
 バン!! と目の前で空気が破裂して、凌は我に返った。
「真壁、何回私に名前を呼ばせたら気が済むんだ?」
 いつの間にか側に来ていた教師が、凌の机を出欠簿で引っぱたいたのだ。
「教科書も開かずに、おまえは学校に何しに来てるんだ。ただ椅子に座らせておくために、ご両親は月謝を払ってる訳じゃないんだぞ」
 払ってくれなんて頼んでない。俺は学校に通いたいなんて一回も言ってない。
「それに最近、午後から授業に出てないことが多いじゃないか、担任の先生に話しておくから、放課後職員室に来い」
 担任は知ってるよ。これ以上さぼったら欠席扱いにしてやると脅されたから、昨日からは六時間目まで出てるんだ。じゃなかったら、てめえの授業なんか誰が出るか。
「さあ前へ出て二番の問題を解け、どうせ無理だろうが。……子供のくせに何様のつもりだ」
 俺が俺を何様と思ってようが、てめえには関係ねえだろう。
 ガタン、と大きな音を立てて椅子を蹴るようにして凌は立ち上がると、無言のまま教師を見下ろした。身長が高いだけではなく、中学生の頃から四年間、水泳部で鍛えた彼は体格がいい。小柄な中年男性なんて、ほんの一撃でぶちのめしてしまえそうに。
 心配そうに自分を振り返っている哲明の顔が、ちらりと目に入った。凌は冷やかに教師を一瞥すると、勝手に隣の子の机から教科書ガイドを取り上げて、黒板に向かった。
 参考書を丸写しにした彼に教師がまた何かわめいたが、凌は何事もなかったような顔で席に戻った。職員室に行く気なんて少しもない。どうでもいい。
「どうも」
 低い声で言って、彼は教科書ガイドを隣の席に戻した。


「もうチンピラと馴れ合ってるのか」
 昼過ぎに、昼食を届けにきたついでに診察をしていった弦谷が帰ってからずっと、日差しを背中に受けながら囲いに凭れてウトウトしていた姫は、低い声に目を覚ました。
 相手は顔を見なくても誰だか判る。起きてしまったことを、彼女は即座に後悔した。
「口もきかずに男をたらし込む技なんて、いつ覚えた?」
 たらし込むなんて、そんなんじゃない。
「そんなんじゃないって言いたそうだな」
 植村はキャメルのコートのポケットに両手を入れたまま鼻で笑った。
 熟睡していた訳でもないのに、彼の車の音に気がつかなかったとは、やはりこの男は自分の、ほんのわずかな隙をつくのだ。正面に立ちはだかる男の足から目を逸らすと、天井の上に広げておいた雨よけカバーがずり落ちかけて、垂れ下がっているのが目に入った。
 昨夜の雨が嘘のように、空は清々しく晴れ渡っているが、嘘ではない証拠に姫の髪はまだ重く湿っている。頬にまつわりついてくるのを指で払うと、自分とは違う香りが微かに広がった。ハーフコートから移った凌の整髪料の匂いだ。たった半日着ていただけなのに。
 昨夜一緒に眠った犬は、弦谷が現れるまで側にいたが、男が近寄ってくるなり走っていってしまった。犬を抱いたのでシャツの胸に残った泥の染みを、姫は無意識に叩く。落ちない。
 背中が痺れているのは、翼を無理に引きちぎった怪我の後遺症か、それとも再生の始まっている合図だろうか。我慢できないほどの痛みではないが、それも植村には見透かされているかと思うと気分が悪い。
 今、何時頃だろう。どのくらいうたた寝していたのか。
「今は四時二十分過ぎだ。手が空いたから様子を見に来たんだが……『動物に餌を与えないで下さい』と檻の外に書いておいた方が良さそうだな」
 姫はギラリと目を動かして植村を見た。
「……いい男か?」
 睨まれているのを気にする風もなく、植村は笑いながら言う。
「そのコートの色男に、惚れたんだろう」
 姫は植村から目を動かさずにゆっくり立ち上がった。泣くでもなく怒るでもなく、ただ静かに見つめるだけの、無表情の炎。見慣れている筈の赤い瞳に吸い込まれそうな気がして、植村は檻から離れたがる足に力を入れて、姫の視線を受け止める。
「どうした?」
 オーダーメイドの、品のいいスーツ。彼の妻の趣味か、ネクタイも派手すぎず地味すぎずスーツに合っている。ベルトも靴も時計も同じブランドで統一されて、まるで厭味がない。
 小さめで優しげな目に、鷲鼻には辛うじてなっていない高く突き出た鼻。長身でガッシリしている植村は、客観的に見ればハンサムで、役者にしたいようなタイプの男だ。父親参観日に学校へ現れたら、彼の子供はさぞかしクラスメートに羨ましがられることだろう。彼の残酷で凶悪な姿なんて、きっと誰にも想像できない。
 姫は植村を見つめたまま、凌のコートを脱いだ。冷たい風に、背中から寒さが広がったが、何も感じていないふりで、檻の間からコートを植村の脇に放り出す。
 あたしはこのコートの男に惚れてなんかいない。だから彼をネタに、あたしを思い通りにしようとしたって無駄よ。
「それが返事か? それならまあ、そういうことにしておいてもいいが」
 植村は余裕を取り戻して姫の頬を撫でた。彼女は肌が綺麗だ。触り心地がいいのか、彼はよく姫の顔に触る。
 姫は力一杯その手を振り払った。
「シャツが汚れてるな、着替えがいるか? 夜持ってこさせるから、その色男と逢引きするなら太陽の出てるうちだぞ。健全だな」
 冗談のつもりらしいが、姫は笑えなかった。
「私は多分、再生予定日まではもう来られないだろう」
 風に煽られた姫の髪をかすめるように手に取って、毛先に唇を触れさせる。彼女が顔を背けるのを許さず、植村は手にした髪をグイと引っ張って彼女を引き寄せ、五センチのところまで顔を近づけた。
「淋しがって泣いたりするなよ」
 頼まれたってするもんか。
 彼女の声が聞こえたのか植村は可笑しそうに笑い、コートのポケットに両手を入れて表に停めた車に戻って行く。二メートルほど離れたところで、ああそうだ、と彼は何かを思い出したように足を止めて、姫を振り返った。
「向こうに路駐してあった車、全部ヘッドライトが割れてたな。先刻はどっかの暴走族かと思ったが……あれは、おまえの仕業だな」
 姫は返事をしない。
 植村も彼女の答えを待たず、車の方へと歩きだす。車の走り去った音を聞いてから、姫は檻に額を押しつけて座り込んだ。
 あの男を……殺せる力はあるのに。この手の中に眠っているのは判ってる。ただ使えないだけだ。今までも、これからも、あたしの思うようには。
 ──初めて、自分の中に眠っている力を使った時のことを、姫は何となく覚えている。
 今になって思えば、あの頃から父の事業は思わしくなかったのかもしれない。
 ここからは遠く離れた、小さな町の寂れた長屋で、あの頃家族は暮らしていた。幼すぎて、自分が惨めな生活をしているなんて判らなかったけれど。いや……そんなことを気にしている余裕がなかったのが事実だ。自分は子供だったが、期待の長女でもあった。
 あの日は珍しく、弟と妹を保育園に迎えに行った。普段はこの目を人に見られるのが嫌で、小学校以外は出歩かないのだが、その日は母親が留守にしていたか何かでおらず、六歳とはいえ、両親の次に年長の自分が行くしか仕方がなかったのだ。案の定、保母にも他の親たちにもジロジロと、珍しそうに、気味
が悪そうに見られたけれど、今日はおねえちゃんだと喜ぶ弟妹を見たら、少し元気が出た。手を繋いで帰って、母親が戻るまで一緒に遊んでいた。
 一つ下の弟と、三つ下の双子の妹。その下の弟と妹は、まだ産まれていなかった。三人の面倒を見るだけで精一杯だった。自分の目と同じ色の夕焼けがいっぱいに差し込む二階の部屋で、ままごとか何かをしていた時だったと思う。
 突然、父の背広の掛かっている洋服ダンスが開いた。中の上着が、ズボンが、ネクタイがベルトがカッターシャツが、どさどさと畳の上に落ちて積まれていく。誰も触っていないのに。
 誰もタンスの側にいないのに。
 怯えた幼い弟妹がしがみついてくるのを腕を広げて庇いながら、姫は動けずにいた。タンスは続けて引出しを吐き出して、中の靴下や下着をぶちまける。そしてタンスの中身が全部外へ出てしまったら。
 怒ったように。
 鏡台の鏡が割れたのだ!
 姫は身を伏せて三人を庇った。破片はこっちには飛んで来ず、誰も怪我をしなかったのは不幸中の幸いだ。異常な破砕音に近所の主婦が駆けつけるまで、姫はそのままの姿勢でじっとしていた。
 ……気持ち良かった。
 判ったのだ。そう望んだ訳ではないけれど、できると思ったこともなかったけれど、心の一部が真実を見抜いていた。
 あれは、あたしが、やった。
 気持ち良かった。全身痺れるくらい、ゾクゾクして震えが止まらないくらい……いい、気持ちだった。
 もう一度味わいたくて何度も願ったけれど、願った時に起きたことは一度もない。あれからいろいろな物を壊したり汚したりしたけれど、自分の意志とは関係なかった。だがいつかは、源が自分であることに、居合わせた誰もが気づいた。
 親と、弟妹以外の誰もが、あたしを憎んだ。
 恐ろしい子供だと。
 怒らせたら、きっと呪われる。この子は目だけでなく、魂までが病んでいると──。
 ふ、と気配を感じて姫は顔を上げた。
 植村の去った方向とは逆側の、草が生い茂っている土手から、三人の人影が現れている。距離があって顔まではっきりとは見えないけれど、それが誰かはすぐ判った。そして彼らが、彼女と植村の一部始終を見ていたことにも。
 哲明、政士、……凌。
 見たんだわ、あたしが、コートを汚い物のように捨てるのを。
 凌と視線が合ったのを、姫は感じた。
 謝りたいけれど、謝って誤解を解きたいけれど、彼女には言葉を伝える声がない。
 無言で見つめ合っているだけの二人の間を風が吹き抜けて、背中の痛みがじわりとまた広がった。                                           (3)へ続く
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by new-chao | 2005-02-10 09:58 | 小説-Angel(2)