カテゴリ:小説-うちへ、帰ろう(2)( 3 )

うちへ、帰ろう

「いや」
「歌詞に『いつかきっと出会うぼくら』って処があって、そこに感動したんだ、昔。初めて聴いた時。笑うなよ?」
「笑ってないよ、いい歌詞じゃないか。今度歌ってくれよ」
「今度な」
 ポン、と夏希は砂の上に飛び下りて、亨を見上げた。白い月光に、まるで花のような可愛い笑顔。
「亨、付き合ってやるよ。俺のやることに干渉しないんなら、一緒に住んでやる」
 生意気な言い方だ。それでもその言葉で、夏希が謝っているのが判るから。
「犯罪は、許さないぜ」
 亨も夏希の横へ飛び下りて、小さな頭に手を乗せた。
「帰ろう」


 それからの三日間、二人は何の問題もなく共に暮らした。
 夏希は朝遅く起きて、夜も遅くまでいわゆる不良仲間と遊んでくるので、昼間仕事に行っている亨とは、顔を合わせる機会がほとんどなかったのだ。定職もなく、まともに帰る家もない堕落しきった生活の夏希に、せめて帰る場所を作れば少しはマシになるのではないか、というつもりも亨にはあったのだが、夏希には意味がないらしい。
 それでも少しは話をしたし、彼の家族のことも判った。夏希は自分からはあまり言わないが、訊けば素直に答える。
 父親は夏希が十二歳の時に交通事故で他界して、以来高校を出て就職した七つ年上の兄と二人で生きてきた。二年前に兄が結婚したのをきっかけに、元々つっぱっていた彼は家を出て高校に行かなくなり、夜の街を歩き回るようになる。
「俺たち四年も二人きりで助け合って生きてきたんだぜ、なのにポッと出の女に兄貴持ってかれちゃってさ。兄貴と嫁さんが毎日イチャついてる家でなんて、暮らせねーよ」
 冗談ぽく夏希はそう言って笑っていたけれど、母親のことを尋ねるとその顔が凍った。
「その言葉、二度と言うなよ亨。お母さん、なんて、吐き気がする」
 それまではまっすぐに亨を見て話していたのに、視線を尖らせて床の一点を睨みつけて、吐くように言った。
「あいつは俺が十歳の時に、俺たちを捨てた。他に男ができたのか何だか知らねーけど、俺の誕生日に、俺を捨てて出てったんだ。あんな女、俺の母親じゃない。顔も見たくない」
 恭子は見せなかった、その激しさを秘めた無表情を、亨は忘れることができなかった。
 
   ◇     ◇     ◇
    
 二人で暮らし初めて四日目の、金曜の夜。どしゃ降りの中を、慎重な運転手のタクシーで女子職員を送ってから自分の家へ戻った亨は、久しぶりに気持ちのいいホロ酔い加減でコーポの階段を上がり、玄関の鍵を開けて中へ入って、びっくりして立ち竦んだ。家を間違えたかと一瞬思ってしまった。
 なんとなれば、居間に明かりが点いているのだ。今日は金曜で、まだ十二時前だというのに。
「おかえり」
「あ、……ただいま」
 ソファに座って大きな音量でテレビを見ていた夏希は、立ってタオルを取りに行くと、玄関に立ち尽くしている亨に手渡した。まさか家にいると思っていなかったので、亨は二秒だけ呆然として、はっと我に返った。ここは夏希の家でもあるのだから、別に彼がいてもおかしくはないのだ、本当は。
「拭けよ、風邪引くぞ」
「ああ、サンキュ。今日、今度結婚退職する女の子の送別会だったんだ。夏希は遊びに行かなかったんだ? 金曜だから稼ぎに行ったかと思った」
 タオルで水を払って部屋に上がりながら言うと、夏希は少し笑った。
「雨、すごいだろ」
 二階建てのコーポの二階にある彼らの家の屋根に、直接叩きつけるような雨音が響いている。その上に追い討ちをかける、天を裂く轟音。
「ああ、雷も絶好調だよ、聞こえてた?」
「うん」
 亨は水を飲もうと流し台へ向かい、後の続くように夏希も居間へ戻る。何となく妙な気がして亨は部屋の中を見渡し、テレビの内容がロシア語講座であることに気がついた。見ていた訳ではないらしい。
「夏希、テレビ見てたんじゃないんだ?」
「えっ、あ、タオル取りに行く時ボタン押し間違えたんだ。えっと、あ、こっこれこれ、これ見てたんだ」
 民放の成人向け番組にチャンネルを変えて、夏希は亨に向かって笑ってみせる。
「ふうん……飯食った?」
「ああ、ダチんとこで食った」
「風呂は入ったか?」
「入った」
「そうか」
 何か変だな、と亨は首をひねった。他愛ないことを普通に話しているが、何だか元気がないというか、いつもと違う気がする。それは自分が酔っているからだろうか。
「見ろよ亨、これおっかしいぜ」
 夏希の笑い声に、ふと亨は思いついた。そんなことある筈はないと自分の一部は言うのを止めたが、コップを流しに置いて、亨は言った。
「夏希」
「ん?」
 夏希はテレビを見たままだ。構わず亨は続ける。
「ひょっとして、俺が帰ってくるの待ってたのか?」
「ばっ」
 夏希は亨を振り返って舌を出した。
「バカ言うなよ、んな訳ないだろ? テレビ見てたんだよ。早く風呂入って来いよ、風邪引いても知らねーぞ、俺はもう寝る」
 言い終わると同時にテレビを消して、亨が何も言わないうちに隣の寝室へ行ってしまった。
 やっぱりちょっと変だな、あいつ。
 亨は大分酔いの冷めてしまった頭を振って、風呂に入りに行った。
 寝室には亨の机と箪笥とステレオなどが置いてあって、二組布団を敷こうとすると狭いが、敷けない訳ではない。友達の部屋に置いてあった夏希の身の回りの物はわずかで、寝室に置いてもあまり関係なく、六・五畳のこの部屋は、二人が寝るには別段支障はなかった。
 風呂の湯を沸かし直しながら、湯船の中で足を伸ばして、ふーっと亨は気分のいい溜め息をついた。ここの処、彼らの管轄地域では大きな事件はなく平和な毎日で、今日の送別会の理由もめでたいし、本当にささやかだがいい感じだ。夏希の家にいるし、のんびりぼんやり風呂に漬かっていられるのも嬉しい。
 そういえばあの娘も、二十三歳だって言ってたな……。
 目を閉じて、今日の主役だった女子職員の顔を思い浮かべると、その顔が恭子に代わっていく。生きていれば恭子も彼女と同じ歳、あんな風に幸せそうにお嫁に行ったのかもしれない。
 俺じゃない、他の男のところへ、か?
 自嘲気味に笑って亨は風呂から上がった。パジャマに首からタオルを引っかけて、濡れた髪を拭いながら寝室へ行く。
 寝室には北と西に二つ窓があり、西側は出窓風に作ってあるので雨戸はない。厚手のカーテンを引いただけなので、表の雨音は居間にいる時より、いっそう強く聞こえる。二人は寝るときには真っ暗にしているが、目が慣れればカーテン越しの外の光で充分室内の様子は見える。それに今夜は特に激しい閃光が走るので、充分すぎるくらいだ。
 くっつけて敷いた布団の片方で、夏希が頭まですっぽり掛け布団を被って寝ているのが、亨にははっきり見える。静かに隣の布団に入って手足を伸ばすと、快い疲労に体中から力が抜けた。
 バリバリバリッ、と家の壁を手で剥がしているような雷鳴が響き渡った。ああ、ちょっと激しい子守歌だな、と亨が思った時。
「……亨」
 眠っていると思っていた夏希がそっと呼びかけてきて、亨は目を閉じたまま返事をした。「なんだ、寝てなかったのか」
「うん、なんか……寝つけなくて」
「ふうん?」
 亨は顔を夏希の方に向けて、細く目を開いた。布団から顔を出して夏希はじっと亨を見ている。
「どうかしたか?」
「別に。雨が、うるさくて」
「そうか」
 酒のせいもあるだろう、目を開いていられない。亨は再び目を閉じて、だが眠気を押して口を開いた。夏希が自分から口をきいてくるなんて、ちょうどいい機会だから。
「そうだ夏希、教えてくれよ」
「何を?」
「不良少年は、どうして家へ帰らないんだ?」
「……さあ……」
 今までの話題と何の関係もない質問に、夏希はそう呟いてしばらく黙り、その間に亨は眠りに引き込まれかけた。少年の声に、また意識を取り戻したけれど。
「淋しいから、じゃないか。家にいる方が」
「え?」
「亨、俺そ」
 ガガガンッ、と雷鳴が夏希の言葉を遮った。かなり近くに落ちたのかもしれない。一瞬だけできた静けさの中で、夏希ははっきり息を飲んだ。
「……俺そっちに行ってもいいか」
 吐息と共に、一気に低い声で夏希は言った。ただならぬものを感じて亨が無理やり目を開いて見ると、布団の上に起き上がって彼を真っ直ぐ見下ろしている夏希の目が、閃光に濡れたように光っている。
「──怖いんだ、俺。雷が」
 亨と目が合うとぐっと目を閉じた。
「十八歳にもなっておかしいだろ、笑ってもいいよ。でも俺、本当ダメなんだ、我慢できないんだ」
 唇を引き結んで、ゆっくり大きな目が開かれる。眠気も酒の酔いも覚めた亨は、視線を受け止めて掛け布団を少し折り返した。
「いいよ、おいで」
 きっと、本当に待っていたのだ。自分が帰って来るのを、この雷雨の中で。見たくもないテレビのボリュームを上げて、それでも塞ぎきれない地鳴りのような雷の音に一人で耐えながら。
 彼の左側にもぐり込んで来た夏希は、微かに震えていた。亨は少し身を起こして夏希の掛け布団を引っ張って、風邪を引かないように自分のと重ねて夏希の背中に掛けてやる。胸にすがりついてくる小柄で、華奢な肩。
「ごめん亨、気持ち悪いよな。女ならともかく、俺なんかと一緒に寝るの、さ」
「バカ、気持ち悪くなんかないよ。人間誰だって苦手なものぐらいある」
 その肩に亨は腕を回して、髪に手を入れてぐしぐし撫でてやる。初めて会った日の夜のように彼の肩に額を押し当てて、夏希は小さな声で言った。
「ごめん、ちょっとだけ、今だけでいいから」
 消え入りそうな声で、でも情けなくても、プライドを捨てても言わずにはいられない。
「そばにいて、……抱いててくれ……」
「いいよ、ずっとそばにいる。一晩中でも抱いててやる」
亨は夏希の細い首の下に左腕を入れて背中に回し、両腕で彼を抱きしめる。
「だから一つ聞いてくれ。こんなこと言うと、余計なことっておまえ怒るかもしれないけど、でも俺は、きっとお母さん、おまえに会いたがってると思うぞ。会いに行ってやれよ、いつでもいいから」
「そう、かな」
 ぱっと夏希が急に顔を上げたので、亨は顎に頭突きを食らいそうになってしまった。二十センチと離れていない所で見る夏希の顔は、薄闇の中、まるで恭子だ。
「そうだよ」
 怖くなるくらい。抱いていることが恐ろしくなるくらい。
「でも俺、あ」
 また雷が彼の言葉を掻き消して、夏希は目を閉じて亨の胸を掴む。亨は腕に力を込めて抱き寄せて、背中を軽く叩いた。
「大丈夫、俺がついてる」
 夏希は黙ったまま頷いた。胸を掴む指から力が抜けるまで、亨はじっと抱いていた。
 大きすぎる自分のスウェットを着て眠っている、幼いとも言える頬のライン。柔らかくシーツに広がった短い髪も、華奢だが骨っぽい肩も間違いなく男で、恭子とは違う。それでも苦しくなる程似ている──顔。
 心臓が一つ、強く脈を打った。
 仕事に出掛ける前、眠っている夏希の顔を見るのが好きだった。寝顔を見つめていると、自分が夏希のことをほとんど何も知らなくて、そして自分たちが赤の他人であることも、どうでも良くなる。たとえ幻でも、恭子が生きて、健康で、俺の部屋で眠っていると思えて。これさえ守っていければ、他のことなどどうでもいいと。
 少し、胸が痛かった。
 苦しくて強く抱きしめた。夏希は恭子じゃない。恭子は死んだ。死んでいない。ここにいる、隣で眠っている。今俺の腕の中で、──息づいている。
 亨の胸に伝わる、夏希の鼓動。まるで拷問のようだ。切なくて息が詰まる。
 雷は一晩中、鳴り続いた。明け方浅い眠りに落ちるまで、亨は夏希を抱いて、その天の唸り声を聞いていた。
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by new-chao | 2005-03-13 16:15 | 小説-うちへ、帰ろう(2)

うちへ、帰ろう

   3.  Me,I’m a criminal

 叩きつけるような大雨。こんな夜はポリの奴らも寝てるだろうな、よっぽど物好きでもないかぎりは。
 いつか落書きをした高架下で、盗んだスクーターにまたがって、雨宿りに来た俊一は濡れた金髪を掻き上げた。
 雨に当たらないようにシャツの中、腹に入れてきた古い型のウォークマンを引っ張り出す。この雨の中を走って来たのだ、体はずぶ濡れだが、姉のお下がりのウォークマンは無事だった。
 中に入っているのは友達にダビングしてもらった、尾崎豊の『十七歳の地図』というアルバムだ。とにかくすんげえオレたちっぽいこと歌ってるから、いっぺん聴いてみろって、としつこく言うので、自分のテープに移してもらったのだ。
 初めて彼の曲を聴く俊一は、ドラマの主題歌になって大ヒットした曲も、顔も、もうすでにこの世にはいない歌手であることも知らなかった。
『十五の夜』というタイトルの曲が気になって、真っ先に聴いた。イヤホンを手で押さえて、サビの歌詞に少し笑う。
 盗んだバイクで走りだす、なんて今の俺みたいなこと言ってやがる。こいつも十五の時にやったのかな。
 けれど歌が二番に入ると、俊一は耳から手を離した。違う。自分とこの歌手とは。
 俺は学校が無駄だとか自由が欲しいとか……そんなことを真面目に考えてる訳じゃない。大人がどうとか社会がどうとか、俺には関係ない。
 ただ、うちに帰りたくないだけだ。
 おまえは単に子供なだけだ、そう言われているような気がした。この歌手は十五の少年の心を歌っているけれど、でも大人で、いろいろなことを考えている。それを表現する方法も持ってる。働いてる。金も持ってる。
 でも、俺は。
 俊一はイヤホンをむしり取った。中からテープを出して、コンクリの壁に投げつける。 でも俺には、何もない。金もないのに夜の街を走り回って、一分一秒でも長くあいつらの顔を見ないで済むように、こそこそうろうろしているだけだ。男と出ていった姉ちゃんみたいに、行くあてもない。話を聞いてくれる相手もいない。誰にも判らない。誰も助けてなんかくれない。
 くしゃんっ、と俊一は大きなくしゃみをした。濡れネズミの体に十月の夜風は冷たい。
 もし俺がバイクで事故ったら……親父は酒飲んで、お袋はそこら中みんなに謝るんだろうな。
 空腹に腹が情けない音を出した。でも金がないからどうしようもない。
 でも、うちには帰れない。
 俊一の落書きした向かいの壁に黒のスプレーでFUCK YOUと書かれていて、ますます俊一は不機嫌になった。

              ◇     ◇     ◇ 
   
 怖い怖い空の竜が、牙を剥き出して地上に迫ってくる。その夜は上空を台風が通過中で、雨も風も、何かを壊すつもりがあるように暴れていた。九月二十二日の、夜。
 嵐の中を、母は出て行った。十本のローソクに火をつけようとしていた父の手を、芯まで燃やしたマッチが火傷させた。兄は何かを怒鳴って、でもその声は聞こえなかった。雨戸に横殴りに叩きつけられる雨と、家をきしませる風と、咆哮のような雷の音に掻き消されて。
「どこ行くの、お母さん。夜なのに、雷も鳴ってるのに」
「お母さんはね」
 行かないで、と彼が掴んだ手を、そっとだがはっきりと母は振りほどいた。
「お母さんはおでかけなの」
「明日じゃ駄目なの? 台風だし雷もすごいし、今日はぼくの誕生日だし」
「夏希」
 母の指が彼の髪に触れて、少しだけ笑った。彼女の手はやけに冷たかった。
「十歳だなんて、大きくなったわね。……おまえも連れて行ければ……ううん、でもきっと、耐えられないわ」
 最初の一言はくっきりと、後は外の音に消される早口で母は言った。思い止まってくれるのかと彼は期待したが、母はすぐに指を離して、傘を手にした。
「じゃあ、行くわね夏希。冬貴も、元気で……あなたも」
 父に何かを言いかけて、結局何も言わず、母は玄関から出て行った。何故父が母を止めなかったのか、子供の彼には判らない。次の日彼と兄が学校に行っている間に母の荷物はなくなっており、代わりに一通の離婚届けが残されていた。
 父が死んだ日も雷雨だった。その日は既に就職していた兄が出張で家を空けていたので、まだ十二歳の彼が一人で淋しがっているだろうと、父は彼のために家路を急いでいたのだ。そして雨に視界を奪われ、濡れた路面にハンドルを取られ、父は自動車専用道路の中央分離帯に激突した。
 ──だから会いたくない。父さんの葬式にも顔を見せなかった、あんな女、もう二度と顔も見たくない。
《行かないで》
 泣いても戻らない。
《誰も、もう俺を置いて行かないで》
 光の竜が、唸りを上げて連れて行くから。


 雷が鳴ると、また大切な誰かがいなくなるような気がする。だから怖くて何もできない。
 兄と暮らした四年間は、兄のベッドにもぐり込んで。
 兄を女に取られて家を飛び出してからは好きでもない女の胸で、雷の夜はいつだって、……震えていた。
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by new-chao | 2005-03-13 16:03 | 小説-うちへ、帰ろう(2)

うちへ、帰ろう

               ◇     ◇     ◇ 
   
 翌朝、亨よりも先に目を覚ました夏希は、亨を起こさないように布団から出て、初めて二人分の朝食の用意をした。照れくさかった夏希は、夕べのことについてはもう謝らず礼も言わず、亨も敢えて何も訊かなかったので、朝になってすっかり天気も回復した明るい外村家の居間は、昨夜の嵐が嘘のようだ。久しぶりに誰かと向かい合ってする朝食は、亨の手前見栄をはってブラックにしたコーヒーが苦いけれど、まずくはなかった。
 率先して部屋を掃除した夏希に、亨はいい子だから好きな物を食わしてやる、と言い、日曜に二人で買い物に出掛けた。食料品売り場を似合わない買い物カートを押して歩きながら、何が食べたい? と亨が訊くので、一も二もなく夏希は答えた。
「寿司」
 レタスを両手に持って重さを比べていた亨は片方をカゴに入れて、長い髪を掻き上げて彼を睨んだ。
「バカ、それは無理だよ、給料日前なんだから。また今度な」
「じゃあ……」
 一個百円のグレープフルーツを二つカゴに放り込んで、夏希は近所の奥さん連中に負けず劣らず一家の料理長の目になって野菜を選んでいる、若い刑事を見上げる。
「ハンバーグ」
「ハンバーグ? ……おまえやっぱり子供だな」
 亨は笑って、オッケイと頷いた。
「まあ見てなさい、一人暮らしが長かったからハンバーグぐらいはお手のものよ。あんまり作らないけど。手間掛かるからな」
「んだよ、飯作ってくれるような女いねーのかよ?」
「いたら、毎晩おまえの隣で寝てると思う?」 
 亨は一番量の多い挽き肉を買って、大きな手で異様に大きなハンバーグを作ってくれた。彼の兄が時々作ってくれたのと同じように、きれいな丸形にはなっていなくて少し焦げた、不格好なハンバーグだ。でもうまかったので、見てくれの悪さは良しとする。
 それからの日々は、夏希はあまり遊びに出掛けなかった。一番の理由は金がなかったことだ。だが、家で亨といるのが楽しかったのも、否定はできない。もちろん亨は仕事の内容などは決して話さなかったけれど、職場であったおかしな出来事や、頭の固い上司のことを笑いながら話したり、年下の女刑事が迫ってきて困ってるんだなどと愚痴ったりして、夏希はそれをからかうのが面白かった。理不尽のニュースに憤ったり、テレビを見ていて同じシーンで笑ったり、意外に気が合うのを発見してしまったこともある。
 そして何よりも。
 仕事から帰った亨に「お帰り」と言うと、亨は笑う。「ただいま。今日もいたんだ」と、彼を見て嬉しそうに笑う。そして毎日同じように訊くのだ、飯食ったか、と。外から戻ったのが自分でも、夏希でも。
 一緒に晩御飯を食べるようになって、嵐の晩から一週間が過ぎた。


 日めくりは、既に十月中旬の土曜の日付になっている。その日の午後、ふと思いついて風呂場を洗った夏希が、ついでにシャワーを浴びている時、珍しく玄関のチャイムが鳴った。気持ち良く鼻唄でビートルズの曲を歌っていた彼は、シャワーから出つつ考える。
 誰だろう、今まで客なんか来たことないのに。集金か何かだとちょっとやばいよなあ、聞いてないし。
 土曜だが亨は仕事で、家には彼一人だ。服を着て出ようとするより早く、来客は鍵のかかっていなかったドアを開けた。
「あーら、不用心ね亨ったら、刑事のくせに玄関開けっ放しなんて」
 女の声だ。夏希は一瞬、亨に迫っている女を思いついたが、何となく声が若くないような気がする。
「亨、いるんでしょ? 上がりますよ」
 夏希はタオルを首から下げて、ズボンだけ慌てて履いてバスルームから出た。居間に上がって彼に背中を向けているのは、五十代くらいの女だ。
「あの」
 低く声を掛けると、女はひゃあっと悲鳴を上げて振り返った。
「亨、今日仕事で家にいませんけど。俺は、留守番で」
 女は、突然目の前に現れた半裸の若い男のドギマギしたように少し目を逸らして、軽く頭を下げた。
「お友達の方? ごめんなさい突然、私、亨の母です」
「あ、お袋さん……」
 夏希は女の顔に何となく見覚えがあるような気がしたのだが、それで納得がいった。亨は自分と同居していることを話していないようなので、自分のこの姿をどう言うか少し迷う。
「俺は、桃野って言います。えっ、と、昨日から俺んちの風呂壊れちゃって、それで」
「まあそうなの。それで、亨遅くなるって言ってました?」
「あ、はい。ちょっと遅くなるかも、って」 
 髪から雫が落ちてくる。タオルで濡れた前髪を掻き上げて後ろの方を拭くと、そうなの、と呟きながら亨の母が夏希の顔を見た。
 ──彼女の手から、荷物が床に落ちた。
「恭子……!?」
「え?」
 夏希は女の顔を見直した。女は髪の毛から足の先まで夏希を見て、震える手を口許に当てた。
「の筈ないわ、あなたは男の子だものね……おばさんちょっとびっくりしちゃった」
 我に返ったように、落としたバッグと見合い写真らしい荷物を拾う。吸い寄せられるように夏希の顔に視線を戻して、亨の母は微笑した。泣くのを堪えているような、変な笑い方だった。
「でも……本当によく似てるわ……他人の空似だなんて思えないくらい……」
 思い出した。
 亨も言ったのだ。初めて会った日曜日、亨も口走ったのだ。恭子、と、自分の顔を見て。
「おばさん」
 タオルから手を離して、夏希は言った。口の中が乾いて、喉が細くなって、うまく出ない声を押し出す。
「恭子って、誰?」


 夕焼けがレースのカーテン越しに、部屋中を照らしている。絨毯の上に広げられたアルバム、鮮やかな写真はその光にセピア色に変わって見えていた。テーブルの上には亨の母が残して行った見合い写真が、こっちも開いてある。
 どうして女の顔に見覚えがあったのか、夏希にはやっと判った。亨にではない、自分に似ているからだ。
 自分には大きすぎる亨のシャツを着て、夏希は居間の絨毯に座り込んでいる。ぼんやりと開かれた目は、アルバムに視線を落としてはいるが何も見ていない。アルバムは、亨の箪笥とクローゼットを引っかき回して探し出した。
『あの子に渡してくれる? 来週の月曜でもう二十八歳なのよ、って』
 母親に頼まれた見合い写真の女と、アルバムの中で笑っている少女とは、全然タイプが違う。それは母親が、故意にまるで別の感じの女を選んだのだろうか。
 乾かそうともせず拭おうともしていない彼の髪から、冷たい雫が一筋、目の縁から頬を伝って落ちる。夏希は目を閉じた。
 お帰り、そう言ってドアを開けてくれる誰かがいない生活。それに慣れるのに二年かかった。
 二年かかって、いつでも兄貴と二人で生きてきた毎日から抜け出して、一人で生きられるようになった。一人でも平気だった。周りに誰もいないから、自分が一人だということに気づかないふりをして、今まで生きていたのだ。それなのに、それなのに……あいつは。
 たったの二週間で、俺の総てを壊した。いつ帰っても明かりのついている部屋がある。ただぼんやりとうたた寝していても、何かあれば起こしてくれる人間がいること、うたた寝しても大丈夫な場所があること、みんな忘れようとして暮らしてきたのに。
 一度抜いてしまった力を、もう一度入れるのは難しい。
 何があっても俺を受け入れてくれる扉、俺を雷から守ってくれる手。兄貴と離れてから初めて見る、兄貴と同じ匂いの笑顔。失いたくないと──思ってしまう。
 けれど。
 夏希はガッと目を開いた。アルバムの中の少女と目が合った。家の庭で撮ったのだろうか、緑をバックに胸まで届く長い髪を解いて、笑っている大きな瞳。
 あいつが欲しかったのは俺じゃない。この女。恭子だ。俺と恭子が、同じ顔をしているから。
 俺に、三年前に死んだ妹の身代わりなんかさせやがって。
 夏希は着ているシャツの胸を掴んで、引き裂こうとした。けれど彼の力では布は破れなかった。お情けのようにちぎれたボタンが二つ飛んで、彼の頬を打って、彼は悔しくて泣きそうになった。
 ……裏切り者。

            ◇     ◇     ◇ 
   
「ありがとう清美ちゃん、助かるよ」
 プリントアウトされた紙を受け取りながら亨が礼を言うと、清美は我が意を得たりとばかりに彼にしなだれかかった。長い髪にざざあっと視界を塞がれ、亨は愛想笑いをしながら彼女の肩を押しやる。
「喜んでもらえて嬉しい、あたし外村さんのためなら、何だってしちゃうわ!」
「そ、それはどうも。じゃ、これで俺は帰るから、どうもお疲れさん」
 清美が一緒に帰ると言いだすより先に亨は椅子から立ち、もらった紙をひらひらさせて警察署を出た。夏希に言ってきたより大分早く家へ帰れそうなので、もし家にいたらこの紙の内容を知らせて、飯を食いに行くのもいいかもしれない。
 夏希が元来はこの街の住人ではなかったで、探すのに時間がかかってしまった。紙の第一行目に出ている名前は工藤史子、夏希の母親の名前だ。現在の住所は隣の県だが、教えておけばいつか会いに行く時が来るだろう。今すぐでなくても。
 清美ちゃんも、悪い娘じゃないんだけどなあ。ああ、のべつまくなしにベタつかないでくれれば。
 鼻唄まじりで車を走らせて、亨が家へ戻ったのは、午後五時を回った頃だった。それまで上天気だったのに夕方から急に崩れてきて、空には今にも泣き出しそうに重苦しい雲が見え始めているが、対照的に軽い足音を響かせて階段を上がり、鍵のかかっていない我が家の玄関を開ける。
 彼の機嫌がいいのにはもう一つ他の理由もあって、母親の住所とは別に夏希に土産があるからだ。十日前に注文をしておいたのが入荷されたと何日も前から連絡はあったのだが、取りに行く時間がなく、今日やっと手に入ったのだ。夏希の喜ぶ顔が見られると思うと、何だか亨も嬉しい。
「ただいま」
 しかし予想した返事はなかった。なんだ、出掛けてたのか、と拍子抜けして部屋に入る。土産の袋を流し台に乗せて、薄暗いな、と思って蛍光灯のスイッチを入れて、亨はびっくりして息を飲んだ。
 絨毯の上、置物のように身動きせずにブルゾンを羽織った夏希が座っている。
「……いるんなら電気つけろよ、目が悪くなるぞ、夏希。ただい」
「亨」
 のろのろと床を見ていた顔を亨の方へ向けて、夏希は彼の言葉を遮った。
「昼間、お袋さんが来たぜ」
「え、お袋? お袋が何しに来」
 言いかけてやっと亨は気がついた。夏希の前に開いて置かれた、アルバムに。
「夏」
「そっくりだって、お袋さんびっくりしてたなあ。俺も驚いた」
 大きな目は、亨ではない所を見ている。亨は焦って膝を着いた。知られたくなかった。こんな風には知られたくなかった。
「夏希、おまえの」
 だから夏希の頭を恭子から離れさせたくて、亨は言ってしまった。本当はもっと良く考えて、夏希を刺激しないように教えるつもりだったのに。
「おまえのお母さんの住所が判ったんだ。良かったら一度会いに」
「そりゃご親切にどうも」
 夏希の目がギラリと動いて亨の目を見て、疾風の勢いで細い指が彼の喉を絞め上げた。
「なんてことを俺が言うとでも思ったのかよ!? 勝手なことしやがって、自分は家族に恵まれてるからって!」
「夏希、違うんだ、聞いてくれ」
「聞いてくれ? おまえこそ聞いてやれよ、お袋さんも親父さんも、おまえのこと心配してるってさ! 明後日誕生日なんだって? 身固めて安心させてやんなよ」
 夏希は笑った。本当は純粋で澄んだ目に似合わない、凄絶な笑い方だった。
「夏希」
 亨は少年の手首を片手で掴んで喉から離させようとしながら、もう一方の手で住所の書いてある紙を夏希のズボンのポケットに押し込んだ。呼びかけても、何と言えばいいのか判らない。
「聞いてくれ? 言えよ、聞いてやるから言ってみろよ。少年課のお巡りさんは、悪いことばかりする不良少年を野放しにしておけないので、わざわざ家へ連れてきて、暖かい家庭というものを教えてやるのが仕事です、って? ふざけんな!!」
 その気になれば、少年と刑事では勝負にならない。片手で手を引き剥がされて、夏希は心底悔しそうにその手を振り払った。
「離せよ、この馬鹿力っ! おまえのやりたかったことは何だ? 可哀相な俺に、慈善事業か!?違うよな!」
 不意をつかれて押し倒されて、夏希が馬乗りになって亨を揺さぶる。どちらかの足がソファを押して壁にぶつけ、大きな音がしたが気にしている余裕はなかった。
「おまえが欲しかったのは、俺のこの顔だろう!? え? この顔を、死んじまった妹の代わりに、部屋のインテリアにでもして飾っとくつもりだったのかよっ!!」
「夏希、俺は……っ!」
 ガンッと突き放されて、テーブルの脚に思い切り後頭部をぶつけた。鈍い痛みに目の前が白くかすむ。細く開いた目に、激怒していた夏希の顔が一瞬心配そうになったように見えた。いつもの、素直で可愛い、顔に。
 どうしてそんなことをしたのか自分でも判らない。思うよりも、考えるより先に体が動いていた。
 腕を伸ばして、背中を抱き寄せて。
 あっけに取られて無防備になった夏希に、──キスした。抗う力を捩じ伏せて、力任せに、頭の痛みの治まるまで。
「っ!!」
 ありったけの力を込めて、夏希は亨の体を押し退けた。喉元に手を当てて肩を荒く上下させて、亨を睨む目は炎のように赤い。
「俺は、……俺は恭子じゃねーぞ、ばかやろうっ!!」
 殴ろうと拳を振り上げて、でも殴らずに、夏希は飛び出した。
「夏希!」
 亨は体を起こして呼んだけれど、夏希の小さな背中はドアの向こうに消えた。残されたのは丸めて放ってあるボタンの取れた彼のシャツと、彼に微笑みかける美しい過去。
 ……恭子。
 キスした彼も、された夏希も、同じくらい傷ついた表情で凍りついている。土産のCDの入った袋が、蛍光灯の光にさえざえと光っていた。                      (3)へ続く
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by new-chao | 2005-03-13 16:02 | 小説-うちへ、帰ろう(2)