カテゴリ:小説-うちへ、帰ろう(1)( 3 )

うちへ、帰ろう

  0. A pickpocket  and a detective

 晴れ渡った青い空、時々スカートの裾を翻してゆく柔らかな秋の風、十月初めの日曜日。いやあ、絶好のショッピング日和ですねえ、皆さん。
 都心のド真ん中にある繁華街で、店舗数の最も多いファッションビルの外壁に凭れて、待ち人来たらずを装っている彼は、内心、ニヤニヤしながら腕を組んだ。天気に恵まれた午後二時すぎのこの辺りは、人出も最高潮に達している。とにかく見渡すかぎり人、人、人。
 でもねえ、こういう時はかっぱらいやスリの人も混ざってることが多いんですよ、皆さん。……おいらみたいのが、ね。
 そう考えて彼は、今度は顔に出してクスリと笑った。照れながら恋人を待っているような、自然な笑い方だ。
 太めの眉によく動く大きな瞳、つやつやの丸い頬、耳に光るのはサファイアのピアス。遠目にはショートカットの少女にも見えるが、薄いシャツの下の胸は固くて平らだ。細いブラックジーンズにスニーカー、これでピアスがなかったら健全な十五歳、という感じだが、考えていることの方はそうではないらしい。
 くっそ、腹減ったなー、早く来いよ、俺のカモになりそうな奴。
 彼女を探しているような素振りで背伸びをして、彼は人込みに視線を配る。百六十五センチと、最近の若者にしては背が高くないので、こうしないとよく見えないのだ。
 その時、通りしなに中年の男が吐き出したタバコの煙を、思い切り吸い込んでしまい、彼はビルの壁に手をついて噎せ返った。
 ゲホゲホゲッホ。っくしょう、どーもゆうべから具合悪いなあ。喉はいがらっぽいし、関節はぎくしゃくするし、頭がボーッとするのは腹が減ってるからかと思ってたけど、こりゃもしかして、風邪か?
 止まらなくなってしまったカラ咳を、エホエホッと繰り返すと、頭の中で白い靄が渦を巻いて抜けていくような目眩に襲われて、彼は細い足を折り曲げて、ストンとコンクリートの歩道に膝をついてしまった。天気は最高だが体調は最低だ。こういう時には人間、何にもしないであったかい布団にくるまって、一日中寝ているのがいい、と判ってはいるのだが。
 そんな家があったら、こんな所でカモ探したりしねーよな、普通。
 都会の人間は、結構他人に無関心だ。人波に押されて先を急いで、道端で苦しんでいる少年に声を掛ける者はない。気づいてすらいない人もいる。
 そりゃそうだよ、ここで声なんか掛けられたら、俺カモネギだと思うぜ。
 ようやく咳の治まりかけた彼は、しゃがんだまま呼吸を整える。左目の隅にコカコーラの自動販売機が入っているので、あそこで何か買って喉をなだめて、出直した方がいいかもしれない。そのくらいの金は持っているし、皆さん無関心だが確かに──目立ってしまっている。
 えい畜生、腹減ったなあもおっ。
 長い前髪の陰で顔をしかめて彼が立ち上がろうとした、その時。
「大丈夫か?」
 優しげな低い声が、後ろから彼に声を掛けた。下を向いたままの少年の視界に、履き込んだ牛革スニーカーと、白い綿パンと、パンツの上に出して着ている茶色のシャツの裾が入った。
「おい、気分が悪いのか、救急車呼ぶか?」
 切迫しているが冷静に言う、若い男の声。
 カモだ。
 男からは見えない角度で、少年はニヤリと笑った。
 サンキュ、兄ちゃん。あんた親切だけど、その優しさが命取り、だぜ。
「いえ、大丈夫、もう平気です」
 少年は背中を向けたままそう答えた。少し顔を上げて、ビルのウィンドゥに映っている男の姿を素早く確認する。
 男は心配そうに彼の方に身を屈めていて、彼がガラス越しに見ていることには、まるで気づく様子もない。年は二十七・八歳、髪を俳優の江口洋介が昔していたように長くして中央で分けていて、そう思ってみれば、顔も何となく江口に似ているような気もする。とは言え、あっちはスターでこの男は一般人だから、こっちの方がずっと三枚目だが。
 シャツしか着てないから……財布はケツのポケットだな。
 三秒で観察を終えると、少年は俯いたまま立ち上がった。
「すんません」
 顔を見られないよう振り向いてすぐ頭を下げて、少年は男の脇をすり抜けて後ろへ回り、男の背中の横を通って人込みに紛れた。ズボンの後ろポケットから、財布をスるのにかかる時間はほんの一瞬、捕まったことは一度もない。
 こ、これで飯が食える。
 一安心しつつスった財布をシャツの中に滑らせると、不意に喉が詰まった。
「ぐえっ」
 風邪のせいかとも思ったが、違う。
 誰かがシャツの衿を、後ろから引っ張ったのだ。
「刑事から財布スるなんて、いい度胸してるじゃないか」
 立ち止まらされた少年の衿から手を離して、代わりに腕を掴み、男は彼をビルとビルの間の細い道路へ引っ張り込んだ。
 んだよくそっ、カモっぽい顔して、ポリだったなんて詐欺だっ。
 暴れて逃げようか、とも思ったが具合が悪くて体が自由に動かない上、男の力は思ったよりも強い。なすすべなく、彼は人けのない所へ連れ込まれてしまった。
「非番の俺には隙があるってことか? 人の親切、仇で返すような真似しやがって、このくそガキ」
「いってえな、手え離せよっ」
「それとも、具合悪そうなのも、最初から引っかけるための芝居だったのか?」
「離せっつってんだろっ」
 やけになって少年は男の手を振り解いた。現役の刑事に捕まったんならもう駄目だ、少年院行きだ。彼は初犯ではなく、常習犯だし。
「盗られるてめえも悪いんだよ」
 シャツの中から財布を出して男に叩きつけるように返し、空いている手で前髪を掻き上げると、少年は開き直って男の方を向いた。先刻は屈んでいて判らなかったが、背が高い。自分より二十センチは上にある男の顔を睨みつける。
 正面から彼を見下ろした男は、何か言おうと口を開きかけて、顔色を変えた。
「……恭子……」

                  ◇     ◇     ◇

 嫌な夢や大きな雷や強い風で
 怖くて 一人で眠れない夜には
 どうか側にいて
 どうか手をつないでいてね

 あなたの温もりは
 ぼくの子守歌

    1. The reason of query

 ウーロン茶を缶からコップに移して、彼の前のテーブルに置いてやると、行儀悪く立て膝をついて、クッションに座っていたスリの子供は、不満そうに彼を見た。自分にはちゃっかりコーヒーを淹れた外村亨(そとむら・とおる)は少年の向かい側、テーブルを挟んで正面のソファに腰を下ろす。
「何だ、その嫌そうな顔は。その足で交番に連れて行かれなかっただけありがたいと思えよ、俺は久々の休みだっていうのに、おまえみたいなくそガキに付き合ってやってるんだから。ほら、住所、氏名、年齢、職業、ああいや学校名か、はい、言って」
 少年は不満そうにしながらも茶を半分飲むと、素直に答えた。
「桃野夏希(とうの・なつき)、十八歳、住所不定の無職」
「十八?」
 亨はまだ冷めていないコーヒーを飲んで熱い熱いと苦しむと、まじまじと少年を見直した。小柄で、顔も女の子っぽいし、十五歳ぐらいかと思っていたのだ。
「十八で住所不定って、親御さんはどうしたんだ。高校は?」
「俺は今ちゃんと名乗っただろ? 次はおまえの番だよ、おっさん」
 おっさん呼ばわりに亨は一瞬ムカっとしたが、表には出さなかった。子供の言うことにいちいち本気になっていたら、少年課の刑事は勤まらない。
「外村亨、二十七歳、職業は少年課の刑事で住所はここだよ」
「結婚してる?」
「残念ながら、まだ独身」
 男が一人で暮らしているわりには、この家は片づいている。十二畳の六・五畳の一LDK、駅から少し離れた所に建っているこのコーポは、家賃も手頃で住みやすい。
「ふうん、きれいにしてんだ。余分な物何にもないし」
 夏希はここへ連れて来られた時と同じように、じろじろと遠慮なく部屋を見渡した。  
 余計な物がない、どころではない。冷蔵庫も食器棚も、必要最低限しか入らない小さな物だし、食卓は今二人が挟んで向かい合っている、小さなテーブル。電子レンジは冷蔵庫の上に、電話は壁に掛かっているので広々としている床に、かろうじてリビングと判るように半分から絨毯が敷かれているが、ソファは二人掛け、テレビもビデオ内蔵の十四インチと小さい。
 一人暮らしというと、雑然と生活用品が散らばっていることが多いが、亨の家は出窓にもテレビの上にも何も飾られていないので、きれいを通り越して殆ど殺風景だ。
「おい、俺も自己紹介したぞ、次はおまえが答える番だろう。学校はど」
「それよりさ」
 亨の言葉を遮って、彼に向き直った夏希はテーブルに肘をついて身を乗り出した。
「こういう時って、普通、カツ丼出すんじゃねーの?」
「は? カツ丼?」
「うん。ドラマ見てると食わしてるじゃん、それで、『田舎のお袋さん、きっと悲しむ ぞ』とか言って『冷めないうちに食え』とか言ってさ」
 何を言ってるんだこのガキは。
 亨は呆れて、また熱いコーヒーをガバッと飲んでしまった。先刻火傷した舌に、さらに拍車をかけてしまう。
 水飲んで来よう。
 ソファから立ち上がった亨を見て、夏希は嬉しそうに言った。
「カツ丼出してくれんの?」
「ばか、ありゃドラマの中だけだよ。それにそう言うなら、あれは取り調べの時だろうが」
「だって、この状態を取り調べって言うだろ?俺すっごく腹減ってんだよね」
「だから?」
「だから、ってことはないだろ、お巡りさんっ。いたいけな未成年の少年を、餓死させようって言うの? わーん、腹減った腹減った、カツ丼カツ丼カ・ツ・丼!」
 流し台に手をついて亨は振り返った。夏希はちゃっかり先刻まで亨がいたソファに座り直して、泣く真似をしている。じっと見ていると夏希が顔を上げて、亨を見た。
 可愛い顔だ。
 目鼻の造作も整っているが、生意気なことを言ったりやったりしても、妙に憎めない何かを持っている。
 亨はつい笑ってしまった。
「おまえにはカップラーメンで充分だ」
「ええーっ」
 夏希のブーイングは無視して片手鍋を火にかけ、買い置き用の棚からカップラーメンを取り出す。
「んだよ、おまえんちヤカンもないの?」
「おまえじゃなくて、外村さん、だろ。鍋で用は足りるからいいんだよ。……腹減って俺の財布盗ったのか?」
「ああ、今日は、ね」
 夏希はさらっと答えて、亨は目を剥いた。常習犯だったとは、最近のガキは侮れない。
 カップに熱湯を入れて割り箸と一緒にテーブルに置いてやると、夏希はすぐ食べようとするので、亨は非情な仕種でラーメンを遠ざけた。
「なんだよー、食わしてくれるんじゃねーの?」
「三分待ってから。その間に答えろよ、学校はどうしたんだ? 親御さんは?」
 パチンとわざと音を立てて箸を置くと、夏希は伸びすぎて目にかかる前髪を掻き上げた。上気したように、顔全体が赤く染まっている。
「高校は一年で中退した。親は十二の時からいなくて、二年前まで兄貴と二人暮らし。兄貴が結婚してから俺は家を出て、以後住所不定、友達ん所女の所モーテルが俺のねぐらだよ。それもういい?」
「もう少し待てよ。それより、友達と女はともかく、モーテルっていうのは何なんだ」
 亨の言葉を聞いて、恨めしげにラーメンを見ていた夏希の目が艶っぽく細められた。十八歳にしては華奢な首のラインと赤い頬が、何だか絶妙に色気とマッチしている。
「な、なんだよ」
「俺は別に、毎日スリやってる訳じゃないんだぜ」
 亨は夏希と入れ代わって座っていたクッションの上から、ずりずりと後退った。子供っぽいとも言える顔なのに、何故か流し目が板についていて、その上妙な迫力もある。
「生きていくために地道な日銭稼ぎの商売もしてるんだから。……何逃げてんの?」
「逃げてない、座り直してるんだっ。それで? 商売って何だよ」
「怒んねーよな? スリはまずいけど、商売は別に女の子じゃないんだし」
 夏希は細い指を亨の手元に伸ばし、亨は焦って手をテーブルの下に引っ込める。
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by new-chao | 2005-03-06 19:19 | 小説-うちへ、帰ろう(1)

うちへ、帰ろう

「夜、特に金曜の夜にあの辺に立って待ってると、客が来るんだよ。亭主が死んじまった若い後家さんや、生きてるけどあっちの方は死んでる亭主持ちの、ヤングミセスが多いかな」
「え?」
「口コミで広まったらしくて、客が途切れることは滅多にないんだけど、今日だけはたまたま、金がなくてさ」
 亨が手を離したのをいいことにさっとカップを引き寄せて、夏希は大きく口を開けて、ちょうどできたてのラーメンを吸い込んだ。狙いはラーメンだったのか、と少しホッとしたような残念だったような気になっていた亨は、夏希の言ったことの意味が判るまでに時間がかかってしまい、
「なっ、おまえ、売春してるのかっ!?」
 と叫んだ時には、すでにラーメンは空になっていた。待つのは三分で食べるのは三秒だ。自分で言っていた通り、本当にすごく腹が減っていたらしい。
「んな、怖い声出すなよおっさん。客は金を払う、俺は若さと体力で、亭主の代わりにサービスする。ギブアンドテイクだろ? 避妊だってちゃんとしてるし、失敗したことない し」
「そういう問題じゃないだろうがっ!」
「……お巡りさん」
 夏希はソファからテーブルに尻を乗せて、滑るように亨の隣に座った。亨の腕に体をすり寄せて、テーブルの下に隠したままだった手を、柔らかく両手で包み込むようにして。
「俺、いいよ。すぐ交番に連れてかれなかったのも感謝してるし、親切にカップラーメンも食わせてもらったし……」
 またあの、迫力ある色っぽいし目つきで、亨を見上げて夏希は言う。
「まだ男は試したことないから、自信はないけど、いいよ。俺、努力するよ」
「えっ」
「お礼に一回……どう……?」
 熱のこもった声で耳元で囁かれて、亨の心臓は大きく跳ね上がった。
 ひげの剃り後もまるで判らない、綺麗な顔がすぐ間近で自分を見つめている。睫毛の長い澄んだ目元、大人になりきっていない丸い頬、……誰よりも守りたいと思った顔、が……。
「おっ、俺は……」
 制止しようと、喉が渇いて上手く出ない声を亨が押し出すと、夏希の目がふっと笑いの形に緩み、──そして。
「ギャハハハ、んだよその目っ! ジョーダンだよ、冗談!」
 夏希は亨の体を突き放すようにして大笑いした。
「ひょっとしておっさん、本気になっちゃった? 別にいーけど、二十七歳にもなって可愛いなあ」
「ばっ」
「おっかしいの──っと」
 亨は怒鳴ろうとして口を噤んだ。楽しそうに笑いながら食べ終わったカップに手を伸ばし、流しへ持って行こうと立ち上がった夏希が、くらりとよろけたからだ。
「おっと」
 立ち眩みを起こしたらしい。持ち前の反射神経で、亨は夏希の体を中腰になって受け止め、中の汁がこぼれないようにカップを取り上げる。
「おい、大丈夫か?」
 亨の肩に額を押し当てて、夏希は絨毯に膝を着いた。
「あ、ああ。ちょっと目眩」
「……あれ、おまえ」
 カップを取った時に触った手が熱かったような気がして、亨は脇の下から手を入れて夏希を抱き起こした。額に手を当ててみると、やっぱり熱い。
「おまえ、熱ないか?」
「熱? あるかも。昨日の夜から、ちょっと具合悪くて」
「そりゃいかん、寝ろ。立てるか? 隣の部屋に布団敷いてあるから」
 顔が赤かったのは、熱があったからなのだ。仕事上、子供の様子には気をつけているつもりだったのに、そんなことにも気づかなかったなんて。
 夏希に肩を貸して、隣の寝室に連れて行くために立ち上がりかけた時、少年が彼の腕を掴んだ。
「亨」
 もう一度肩に額を当てているので、顔は見えない。くぐもった声で夏希が言った。
 初めてちゃんと、彼の名を呼んで。
「……なんで、俺を家へ連れて来たんだ?」 
 素朴な問いに、亨は動きを止めた。

               ◇     ◇     ◇ 
   
『亨が警察官になるなんて、信じられない』
 五年前、亨がまだ大学四年生で、県警から採用内定の通知を受けた日。
 両親より先に知らせたくて病院に飛んできた彼に、ベッドの上に身を起こして、恭子は目を丸くした。また少し痩せたのか、元々大きな目がこぼれそうだ。
『それが兄に向かって言う言葉? もっと他に言うことあるだろう、何か』
『あ、──おめでとう』
『ありがと』
 肩に広がる、まっすぐの髪を揺らして恭子は笑った。元気そうにクスクスと笑うけれど、彼女の手は冷たい。九月に入って季節は秋だけれど、まだ暑いのに。
『ふふっ、でも何か不思議。亨、不器用だからなあ、無茶やって犯人のために殉死なんて、やあよ』
 細い指が亨の袖口を掴んで、彼の手を揺らす。十八歳になったばかりの恭子は、小柄で、年齢よりも幼く見える。
『ばか。そんなのはドラマだけだよ』
 生まれた時から心臓の弱かった恭子は、物心ついた頃からずっとこんな調子で、病院を出たり入ったりの生活だった。学校にもまともに通えないし、友達もおらず、彼女の見舞いに来るのは家族だけだ。
 亨と恭子は母親が違う。
 亨の母は彼を産んですぐ亡くなり、彼が三歳の時に父は恭子の母と再婚したのだ。十歳の誕生日まで、本当の兄妹だと思っていた。
『ねえ、きっと恰好いいだろうね、お巡りさんの服着たら』
 澄んだ瞳で亨の顔を見上げて恭子は言う。
『亨、背も高いし、ハンサムだしさ』
『そうかな』
『うん。……あたし』
 冷たい手が袖口を離れ、亨の手を握る。
『あたし、亨の制服姿、見たいな』
 亨は強く、その手を握り返した。両手で強く、決して解けないように。
『見れるよ。大丈夫。おまえが弱気になってどうするんだよ』
 白い肌。会う度に痩せている愛らしい顔。 そんな恭子を見るのは辛いけれど、会えない方がより辛くて、三日とあけずに彼は病室に通っていた。
『そうよね、見えるよね』
『俺がおまえに嘘ついたことあったか? 大丈夫だよ、見える』
 こうしている間にもまた一歩、死に近づいていることは判っていた。だから手が離せない。
 ほとんど他人と口をきくこともなく、二十歳の誕生日を目前にして、恭子は逝った。彼女のたった一人の、最初で最後で最愛の恋人が、亨だった。
 そしてそれは亨にも言えること、だった。


 本当に……そっくりだな……。
 彼の布団で眠っている夏希の寝顔を見ろして、枕元に座っている亨は、胸の奥で呟いた。カーテン越しに、ほんのりと差し込む午後の光に照らされた少年の顔は、いつも病室で見つめた彼女の寝顔と、瓜二つだ。
 なんで、家に連れて来たんだ?
 その問いには、答えられる筈がなかった。スリの現行犯を自宅へ連れ帰るなど、いくら非番でも現職の刑事のすることではない。それは承知の上だ。
 ただ見ていたかった。
 この顔を、一分でも一秒でも長く──近くで見たかったのだ。
 もちろん、厳密には違う。夏希は童顔だが確かに男で、恭子より色も黒いし、髪も短い。全然別人で、赤の他人だ。判ってはいたが見過ごせなかった。彼の手首を掴んで車に押し込み、家へ連れて帰った。別れたらもう二度と、会えないに決まっているから。
 恭子。
 おまえが死んでから三年、でもおまえは、いなくなった訳じゃなかったんだね。こんな風に街の中で、俺の知らない所で生きていたんだね。
 胸が震えた。涙がこぼれそうになって、亨は目を閉じた。
 自分がどんなバカなことを考えているか、彼には判っている。顔はそっくりだが、夏希は恭子ではない。そんなことは判りきっている。そんなことはどうでもいい。
 この顔が、恭子、この顔が呼んだんだ。俺のことを、亨、そう呼んだんだ。おまえが死んでから親父とお袋以外誰も、俺を亨なんて呼ばなかったのに。
 ……恭子……。
 目を開くと、穏やかな寝顔がそこにある。上下する布団の動き、温もり。生きている。ここにいる。
 涙が一筋、頬を伝い落ちた。一粒落ちれば後は堰を切ったように流れた。あの日からずっと泣きたかったのだと、ようやく亨は思い出した。
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by new-chao | 2005-03-06 19:00 | 小説-うちへ、帰ろう(1)

うちへ、帰ろう

  2. Nights

「ちょっとお、聞いたわよ外村さん!」
 机に広げた書類に向かってぼんやりしていた亨は、突然後ろからしなだれかかられてどびっくりして、持っていたボールペンで、書類にずざあっと線を引いてしまった。
「どわあっ、書類がっ」
 亨に凭れかかった若い婦警は慌てて彼から離れて、机の上を覗き込む。
「きゃあごめんなさい、あたしのせい? あたしのせい? あたしのせい?」
「ああ、俺のせいだよ」
 気にするな、と片手を振ってみせながら、亨は内心、溜め息をついた。前にも一度、彼女に驚かされて書類を破ってしまったことがあるのだ。課長の厭味の、一つや二つや五つは覚悟しなければならない。
「それより清美ちゃん、何を聞いたんだっ て?」
 ボールペンを机の上に放り出して、亨は今年で二年目に入った後輩の女性刑事、松井清美に向き直った。
 長い髪と豊満な肉体で、署内の人気も高い清美は、どういう訳か自分にただならぬ好意を寄せてくれていて、ありがたくない訳ではないけれど、苦手だ。
「あっ、あのね、外村さんが今年の上半期に、連続八回補導した中学生の子がいたでしょう? あの子昨日の夜、深夜徘徊でまた捕まったんですって」
「な、俊一(としかず)またやったのか」
 あのくそガキ。
 亨は額に手を当てて呻いた。昨日に引き続いて上天気の月曜日だというのに、朝っぱらからガッカリする話題だ。仕事中は後ろで一本に縛っている髪を解いて、亨はガリガリと頭を掻いた。
「なんで不良少年っつーのは、家へ帰らないんだろうなあ……?」
 口に出してボヤくと、余計な不安を思いついてしまった。具合が悪いのだからとにかく今日一日は家にいろ、と夏希に言って仕事に出たのだが、あの童顔の不良少年が、刑事の言うことを素直に聞くとは思えない。もっと、もっともっとよく夏希の顔を見たかったが、昨日一晩だけの幸福だったらしい。
 はあ、と今度は口に出して溜め息をついた亨に、清美がどさっと抱きついて言った。
「それは決まってますよ、外村さん。家より外の方が楽しいからでしょ?」
「き、清美ちゃん」
 柔らかい胸を押しつけられて、亨は椅子ごと机に押さえ込まれた形になった。今はたまたま課長は席を外しているけれど、見つかったら大目玉じゃ済まないかもしれない。
「そう思うでしょ、外村さんも。ねえ?」
「いや、あ、あのね清美ちゃん、離れて」
「特に外村さん一人暮らしだし、家に帰っても楽しくないでしょ?」
「そんなことないよ、清美ちゃん!」
 ぐいっと彼女の体を押し退けて、亨は言い切った。
「俺は一人暮らしだけど、家にいる方が楽しくないなんてことはない。俊一には、俊一たちには家族がいるんだ、帰れる家があるっていうのはそういうことじゃないか。待っている誰かがいるのに、楽しいとか楽しくないとか、そういう問題か?」
 亨は椅子を回して机に手をついた。
「外村さん……」
 清美がそっと彼の肩に手を置いたけれど、彼は振り返らなかった。


 そして亨が危惧した通り、釈然としないまま一日の仕事を終えて、彼が家へ帰った午後七時。
 夏希の姿は、部屋にはなかった。

             ◇     ◇     ◇
    
 やかましい音を立てて、頭の上を電車が走っていった。負けないように小さなラジカセのボリュームを最大にして、高架下にガンガンヘヴィメタを響かせる。ラジカセはごみ捨て場から拾ってきて、電池はスーパーから盗んだ。壊れかけの物を直すのは得意だが、切れた電池は直しようがない。
 少し離れた位置に立っている外灯の光が届くギリギリの所で、渡辺俊一は手にした彩色用スプレーの缶をリズムに合わせて振った。このスプレーは盗んだ物ではなくて、友達にもらったのだ。
 深夜徘徊で捕まったのはつい昨日だが、そんなことはどうでもよかった。別に何かをしていた訳でもなく、ただふらふらしていただけなので、すぐ帰されたし、たとえ何度説教されようと家に帰る気もない。
『おまえらは社会のクズだ、いなくなってせいせいしたって、本当はおまえらの親も思ってるさ』
『けどこうやって、忙しい俺たちの手を煩わせてるってことを、ちゃんと理解しとけよ。まあその小さな頭ん中の、こーんな小さな脳味噌じゃ、すぐ忘れちまうんだろうが』
『おまえら、特に渡辺って言ったか、おまえ、今までに八回も捕まってるじゃないか。おまえには他人の迷惑ってことが判らないんだな。そういう奴はクズ以下だ、十五歳でクズ以下だなんて、生きてる資格もないぞ』
 耳元で蘇る、ガラの悪い刑事の言葉を消すように、俊和は英語の歌詞をデタラメにカタカナで叫んで、スプレー片手にコンクリートの壁に向かう。FUCKと書こうとしてふと思い止まった。そんな、そこら辺の十五歳と同じようなことはしたくない。
 昨日、自分に言いたい放題言った刑事の説教は、彼の心には何の意味も持たない。言われ慣れているので、今更改めて腹も立たない。けれど夏に八回連続して彼を補導した、ちょっと変わったあの男の言葉だけは、何故か今も覚えている。
『うちに帰ってやれよ、親は心配してるぞ。おまえはまだ中学生なんだから』
 あの、刑事のくせに珍しく髪を長くした男だけは、彼を怒鳴りもせず、罵りもせずにそう言ったのだ。補導する回数が重なるたびに哀しそうな顔になったことも、本当は俊一は気がついていた。それには知らん顔をしていたけれど。
 心配する、っていうのは酒飲んで暴れることかよ。そんな親父に、とにかくごめんなさいしてってお袋が泣きわめくことか、刑事さん。
 俊一は脱色のしすぎでバサバサになっている金髪を掻き上げて、スプレーを構えた。最初の位置を迷って、後は一気に。
“あいさつは人生のきほん”
 オレンジ色が鮮やかだ。


 やけに綺麗な、レモン色の月が昇っている。 ──同僚の誘いも断って、一目散に家へ帰ってきた亨が空っぽの部屋にがっかりしている頃、そんなことは露知らず、夏希は亨の家から歩いて五分程の所にある、児童公園にいた。昼間はいいが夜はもう冷えるので、亨のクローゼットの中から勝手に借りてきた、ブカブカのジャケットを羽織って。
 夜風が髪と服の裾を揺らして、通り過ぎて行く。公園の中で最も空に近い場所、ジャングルジムのてっぺんに夏希は座っていた。午後七時ともなるとさすがに子供たちはおらず、夏希は遠慮なく公園を独占して、夜空を眺めている。
『おまえのことを見逃してやる。だからその代わり、おまえは俺と一緒に暮らすんだ』
 なあに言ってんだか、あのおっさん。
 夏希はジャケットのポケットからコンビニで買ったタバコを取り出して、両手で弄んだ。ジーンズのポケットに入れっぱなしにしてある百円ライターもついでに出す。タバコは亨の上着に入っていた小銭で買ったのだ。
 返事は後でいいが、とにかく今日一日は家にいろ、そう言われて、夏希は昼間は素直に家にいた。
 夕方まではやはり具合が悪かったのと、このところ一人で一人分のベッドを使って寝ることが少なかったので、亨の布団では思い切りリラックスできて、つい長々と昼寝してしまったからだ。目が覚めると熱は完全に下がっていたので、タバコを買いに行きがてら辺りをふらふらと散策して、最後にこの公園に辿り着いた。
 公園の周りは草が生え放題になっている売地と、何かの会社の駐車場で、すぐ側に家が立っている訳ではない。外灯も届かない公園で月明かりに照らされて、夏希はクスリと笑った。
 得体の知れないスリ少年に食と住を施して、何しようって言うんだか。礼なんて体でぐらいしか払えないぜ。なんて、な。
 笑いながらタバコの箱を放り投げ、片手で受け止めるとパッケージを破って一本抜き出し、火を点ける。が、ライターは情けない音を立てるばかりで火が点かない。思ったより風が強いからか。そうではない、切れている。 舌打ちして、夏希はライターを道路に向かって投げ捨てた。役に立たない物は持っていても仕方がない。
 ……持っててもしょうがない、か。
 だから俺も捨てられたのか。母さんに。
 ぶっ、とくわえていたタバコを吹き出す。くだらないことを考えてしまった。こういう時は歌うに限る。
 夏希は箱を元のようにポケットに入れると、そのまま両手をポケットにつっ込んで、月を仰いだ。
 曲はCARPENTERSの『SING』。


 夏希がいなかったことにガッカリしながら部屋へ入り、着替えようとクローゼットを開けた亨は、上着が一枚なくなっていることに気がついた。そういえば帰った時、玄関のドアにはちゃんと鍵が掛かっていた。朝置いて行ったスペアキーと、彼の上着を持って、夏希は消えたのか。
 盗まれたのか。
 ふとそう思って、亨は頭を振った。そんな筈はない。恭子が──あの顔が俺にそんなことをする筈がない。
 まだ、必ず近くにいる。
 結んでいた髪を解き、いても立ってもいられなくて亨は家を出た。車の方に行きかけて向きを変える。
 何かに呼ばれるように、導かれるように近所を歩き回って、これ以上探すあてもなくまたがっかりしかけた彼の耳に、風に乗って歌が聞こえてきた。彼は耳を澄ました。
「Don’t worry that it’s not good enough. For anyone else to hear.
Just sing,sing a song……」
 少し高めの、綺麗な少年の声。
 人違いかもしれない。昨日一晩一緒にいただけの少年の声を、しかも歌声を聞き分ける自信はない。でもきっと、この少し懐かしい歌を歌っているのは、彼だ。彼であって欲しい。 声の方向へ走ると、行く先は小さな公園だった。囲むように植えられた、背の低い木々を横っ飛びに越えて中に入ると、ジャングルジムの頂上に後ろ姿がある。
「La la la la la……」
 気持ち良さそうな声に一瞬迷ったが、思い切って亨は呼びかけた。
「夏希!」
 声が途切れて、後ろ姿が亨を振り返る。
 逆光で見えないが、笑ったらしい。
「……亨」
 夏希は長すぎる袖をバタバタと振って手招きした。ホッとしつつ亨は駆け寄り、夏希の隣によじ登る。
「息切らしちゃって。俺のこと探した?」
「探したよ。病み上がりが夜ふらふら出歩くなんて、冗談じゃないぞ」
「おまえの上着あったけーよ。あ、そうだ、火持ってない?」
 夏希があまりにも何気なく言うので亨も 「俺、タバコ吸わないから持ってない」と答えそうになって、少年の手にある箱を見てはっと思い出した。未成年の夏希の手から、タバコを取り上げる。
「なっ、女の子がタバコを吸うんじゃないっ」
「はあっ!?」
 亨の口からつい出てしまった台詞より、もっと大きな声で夏希がつっこんだ。
「もしもし? おっさんの方が熱あんじゃねーの?」
 夏希は亨の手を掴んで有無を言わせず自分の胸を触らせると、もう片方の手で亨の頬を軽く叩いた。
「俺は、男! おまえと同じ、胸はなくて玉はついてんの! おまえのより立派かもしんねーぜ、見せようか?」
「あ、い、いいよ。ごめん、ちょっと言い間違った。だけど男でも女でも、未成年がタバコを吸ったらいけません。大きくなれないぞ?」
 夏希は頬を膨らませて手を離した。
「背のことは言うなよ、気にしてるんだから。いいよな、亨はでかくて」
 傷つけてしまったのだろうか。夏希は向こうを向いてしまい、亨は何か言おうと口を開いたが、謝ったら余計に傷つけるような気がして何も言えない。
 あー……どうしよう。こういう時に上手いことが言えないなんて、俺、本当は少年課には向いてないのかもしれない。
 何度か声を掛けようとして、けれど何も言えずに亨が下を向いた時、不意に夏希の手が亨の髪に触れた。
「亨、何でお巡りのくせに髪伸ばしてんの? 普通短くしてないか。俺、昨日亨を見た時、絶対にポリだけは違うと思ったぜ」
 気にして黙っていた亨が、まるでバカに思える程あっけらかんとした口調で、夏希は言った。亨は作り笑いをしてみせる。
「あ、髪? 似てるって言われたから、顔が、江口洋介に。伸ばしたらもっと似るんじゃないかって、妹が言ったからさ。似てる?」
「うん、似てる。まあ本物の方が恰好いいと思うけど。垢抜けてるし。けど亨も、わりとハンサムだし、ってことは」
 夏希は大きな目をニヤッと細めて、スケベそうな作り声を出した。
「おまえの妹って娘も、結構上玉かもしれないってことだよな? 幾つ? どこに住んでんの?」
「やらしい声出すなよ、子供のくせに。もういないよ、三年前に心臓病で死んだんだ」
「あ」
 今度は夏希が黙る番だ。しかし夏希は亨のように俯いたりはせず、思い切って前髪を掻き上げ、はっきりと亨の目を見て言った。
「ごめん、無神経で」
 スリやかっぱらいに売春などというスれた生活をしてきたにしては素直な言葉で、亨は笑ってしまう。
「謝ることないよ。生きてたら二十三、かな、可愛い娘だよ。妹は母親似で俺は親父似だから、顔は俺とは全然似てないんだけど」
 おまえとはそっくりだ。
 その言葉は胸にしまいこんである。妹に顔が似ているから罪を見逃してやる、など、本人はもちろん他人にも言えることではない。そしてその娘を、半分とはいえ血のつながった妹を誰よりも好きだった、なんて。
「夏希、歌うの好きなのか?」
 話題を変えてやると、夏希は照れたように笑った。
「人のいる所じゃ歌わないけどな、俺、カラオケ行くの好きじゃないし。……恥ずかしい話しようか、小学生の時、親父と兄貴と三人でアニメの『ラピュタ』見に行ったことあるんだけど、俺、あの主題歌すごく好きなんだ。知ってる?」                         (2)へ続く
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by new-chao | 2005-03-06 18:50 | 小説-うちへ、帰ろう(1)