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Angel

 本当に気に障ることを言ったらしいと、凌はちょっとだけ後悔する。
 だけど先に俺の神経を逆撫でしまくったのはそっちじゃないか、謝らないからな、俺は。謝らない。
「悪いけど、俺はもう行くから。遅刻したくなかったらおまえも走ってけよ、って、関係ねえか」
 政士は答えない。
 凌は彼を見ないようにしてエンジンを掛けると、スタンドを外してバイクに乗った。
「じゃ……」
 じゃあなと言うために顔を上げた時には、政士はもう歩き出していた。一瞬むかっとしたけれど、いつもの政士らしくない下向き加減な歩き方に、苛立ちが萎んでいく。凌は一度思い切りエンジンをふかすと、政士を視界から追い出して彼の横を走り抜け、ろくに左右も確かめないで角を曲がった。
 ……帰ってみた家は思った通り誰もおらず、しんと静まり返って、他人の家みたいによそよそしかった。留守なのだから足音を殺す必要もないのだが、つい静かに歩いてしまう。
 一旦部屋に上がってタートルネックの黒いセーターとジーンズに着替え、ついでにまだ履いたことのない靴下を探していると、何故か昔のことを思い出した。
 小学生の頃のことだ。熱を出して学校を休んだ日。
 両親は今と同じ共働きで仕事に行き、四つ年の離れた姉も中学校に行ってしまって、自分は平日の昼間、一人きりで寝ていた。家はもちろん、隣近所もみんな仕事や学校に行って留守なので、静かで、通りかかる車もなく、世界中で自分はたった一人みたいな気がしたものだ。その日に配られたプリントと、給食で出たデザートのヨーグルトか何かを哲明が届けてきてくれるまで、一日がものすごく長かった。永遠に続くかと思われるぐらいに。
なんでこんな時に、ガキの頃のことなんか思い出してんだ。平日の朝九時前に家にいるのなんて久しぶりだからか。
 凌は教科書を床にぶちまけて空にしたバックパックに、のこぎりと手袋と新品の靴下三足組と、買い置きの使い捨てカイロお徳用をビニール袋のまま入れて、それから台所に行って五百ミリのミネラルウォーターと、おそらく姉の食べ残しだろうジャムを塗ったトーストをラップで包んでから入れた。自分で食べるつもりなのではなく、あの犬にやろうと思ったのだ。凌は朝は食べない。
 タンスから、去年買ったがまだ二回ぐらいしか着ていなかった焦げ茶色のブルゾンを出すと、凌は玄関から堂々と家を出た。羽織ってみると何となくナフタリン臭いが、バイクに乗れば風で消えるだろう。
 風邪で二日も続けて休んだ時は、政士が必ず遊びにきてくれた。給食の冷凍みかんとか、彼の母親が趣味で作ったマドレーヌなんかを持って、凌の家の誰かが帰ってくるまで、家にいてくれた。宿題代わりにやってと言う凌に、それは自分でやらなきゃ駄目と、小学生のくせにやけに大人みたいな言い方で言って。今と変わらずに。
 でも俺は──謝らないからな、今日は。
 登校時間はとっくに過ぎているので、歩行者はほとんど誰もいない道を、制限速度はお構いなしに飛ばす。八つ当たりなのも、政士が正しいことも判ってる。ただ一点を除いては。
彼女と係わり合いにならない、なんて、今更そんなことができるか。こっちが勝手に彼女を出してやるって約束したのに、また勝手にもうやめた、なんてそんな無責任なこと。彼女は待ってるのに。
 いや、責任とか、そんなことじゃない。姫のためじゃない。俺のためだ。
 俺が、姫に会いたいから。
 力一杯握りしめていたスロットルから手を離して、凌はビルに続く角を曲がった。先刻までと何かが違う感じがして、スピードを落として進み……気がついた。表に渡してあった、侵入者を防ぐチェーンが外れているのだ。
 誰かがいる。
 凌はエンジンを切って、一見腐った無人の長屋の脇にバイクを停めると、足音を立てないようにビルの敷地に入って、壁に体を沿わせて裏に近づいた。檻のすぐ側に停められた、白い車の尻が見える。デカさから見て、国産車ではないだろう。
 雑草の上に膝を着いて、壁からそっと目だけを出して見た。何してやがる、と飛び出して行って怒鳴りつけたい気もするが、それをやると姫の立場が悪くなるかもしれない。
 汚らしい革靴が、まず目に入った。その上に限りなく無個性なグレーのズボン、よれよれの白衣、背中を向けているので顔は判らないが、だらしなく伸びた白髪まじりの髪。
 政士の言っていた医者風の男とは、この男のことだろう。
 思いっきり小柄だ。姫より背が低いのではないだろうか。男のすぐ横に、三段ぐらいの小さな脚立が広げておいてある。
 男は脚立の一番上まで上がると、檻の屋根の部分に手を伸ばして何かをした。それから降りてきて、檻の短い方の面の両端に当たる棒を掴む。男の右手が掴んでいるのは、凌が切ろうとしているのと同じ棒だが、男がそれに気がついているかどうかは判らない。
 男が棒を持ち上げると、その面全体が五十センチぐらい持ち上がった。ちょうど鳥籠の餌を入れる時に使う、上下に動く窓の用に。
 姫は開いた隙間から外へ出て、一瞬ギョッとしたように顔を強張らせた。
 凌と目が合ったのだ。男がこっちを見るまでの二秒間に、姫はあっちへ行ってと目顔で訴えた。凌は顔を引っ込めた。
 バイクのところへ戻ってしばらく待ってみたが、車の来る気配はない。凌は諦めてヘルメットを被った。
 あんな小さな中年男の一人ぐらい、すぐぶちのめしてやれるのに。きっと姫自身でだってできる筈だ。檻を開けてる時なら隙だらけだし、助手を連れてきている訳でもない。一対一、俺が負ける筈ない。
 なのにどうして、おとなしく言われた通りにしてるんだ。
 判らないことばかりだ。姫のことも……自分のことも。
 俺はどこへ行けばいい?
 凌はバイクにまたがってエンジンを掛けた。答えてくれる相手はどこにもいなかった。


 喉の内側がカサついて、頭にレースのカーテンがかぶさっているような気がする。この状態を別の言葉で言うと何か?
 風邪の引き始め、だわ。
 弦谷の用意した脚立を椅子がわりに腰掛けて、姫は少し熱っぽい息をついた。凌のコートも、昨日取り替えた白い綿シャツも脱いでいるのに、思ったほど寒くないのは熱のせいか。
 シャツの中に着ている黒い服は、前から見ればただのハイネックのノースリーブだが、実は後ろが首の下から背中の四分の三まで空いているので、シャツを脱いでしまうと背中はほとんど裸だ。
 脂っぽい指が背中に触れて、嫌悪感に姫は体をもぞっと動かした。ごついけれど優しい凌の指と、弦谷の指はまるで違う。この二人を、同じ『男』という種類だと思わなければならないとは。
「順調ですね、明日の午後には完全に元の通り、美しい姿が復元できそうですよ。あなたは回復力の強い、いい実験体です」
 この男の、この時々裏返ったような声が嫌い。
 一言一言の終わりに、人をバカにして笑うのを我慢しきれなかったみたいな、不快な息を吐く喋り方も嫌い。空はこんなに爽やかに晴れているのに、ここだけ梅雨時の地下室のようにじっとり湿っている感じがして、気持ちが悪くなる。
「もうここへ来て四日ですねえ、そろそろお部屋へ戻りたいんじゃありませんか」
 慇懃無礼というのは、こういう話し方のことを言うのだ。凌たちの話すのを聞いた今では、あんまり厭味で癪に触る。嫌いだ。
「いや、でもこの様子では後ろ髪を引かれて帰るに帰れませんか? このコートの相手がいれば、吹雪の中でも燃えるんでしょうねえ、本当、若いことはすばらしい」
 弦谷は姫の肩に手を置いて、不精髭の口を耳にくっつかんばかりに寄せた。
「微熱が出てますよ、体はまだ昨夜の余韻に浸っているらしいですね」
 いやらしい言葉。わざと傷つけようとしているのに違いない。
 姫は弦谷の手を思い切り振り払った。植村以上に、この変質者になんて触られたくない。
 嫌いよ、大っ嫌いだわ。
 声さえ出せれば、汚い手であたしに触るなって怒鳴ってやるのに。人の体だけじゃなくて、心まで切り刻んで面白がってる。魂まで病んでるのはこの男の方よ。
「檻を挟んで愛し合うなんて、どうやってやるのか、技を教えてほしいぐらいです」
 乱暴に手を振り払われても気にする風もなく、弦谷は今度ははっきり声に出して、ケケケと笑った。姫は脚立を蹴るようにして立ち上がるとシャツを着て、凌のコートを袖を通した。このコートを着ていると、彼に抱かれているようで安心できる。何があっても対抗してみせると、思える。
by NEW-CHAO | 2005-02-18 17:22 | 小説-Angel(4)
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