Angel
◇ ◇ ◇
「いらっしゃ……」 「なあんだ、ここにいたんだ、探しちゃったじゃーん」 挨拶しかけた言葉を遮って、自動ドアが閉まるより先に彼女たちは嬉しそうに言った。空いたテーブルを片づける手を止めて、凌はため息をついた。 探してくれなんて頼んでねーだろう。 「ショートホームルームが終わった途端にすっ飛んで帰るから、どこに行ったのかと思うじゃないの。江藤に聞いても知らないって言うし」 「でもなあんだ、バイトだったんだ」 いちいち言わなきゃいけないのか、テツに。それともおまえらに? 凌は慣れた手つきで、お盆に使用済みのグラスと皿と灰皿を乗せてテーブルを拭くと、腰に下げている伝票とペンを取り出す。 「ご注文は?」 「やあだ、まずお水持ってきてよ」 「ねーっ」 メニューを開く彼女たちをテーブルに残して、凌はカウンターの奥に戻った。水曜の夜、平日だからか、店内は空いている。 昼間は喫茶店で夜はバーのこの店で、凌がウエイターのバイトを始めたのは、二年生になる少し前の三月からだ。大型の休みの時以外は土日祝のみの契約だが、昨日の夜先輩から、土曜と交代して欲しいと電話があったので、今日はガソリンを入れたバイクを飛ばして来た。先輩の頼みだから断れなかったとい うのもあるし──用があれば、あの場所へ行かなくて済むということもある。 あの場所。姫のところへ。 凌は新しいグラスに水を注いで、二人の女のテーブルに運ぶ。行きたくはないが、相手は一応客だから仕方がない。 彼女たちは去年、凌がまだ熱心に水泳部の練習に出ていた頃、よくプールを囲んでいるフェンスに張りついてキャーキャー言っていた同級生で、凌はやっぱり名前を忘れている。覚えるつもりもない。 「でも凌がウエイターしてるとこ見るの久しぶり。お店に合わせて、ちょっと髪の色変えればいいのに、お洒落にさ」 「ピアスとかねーっ、似合うよ、きっと」 「なんでやらないの? 今みんなやってるじゃん」 やる理由がないから、だ。おまえらが俺をどういう人間だと思ってるかは知らないけど、俺は流行に興味ない。やりたい奴がやればいい。みんながやってる、は理由にならない。 「ねえ、最近学校終わってからどこ行ってんのよ。誘ってくれればいいのに。明日の夜とかどお? 遊びに行こうよ」 「チエリちゃんとデートとか言わないよねー」 「そんなんじゃねえよ」 ぶっきらぼうに凌が答えると、彼女たちは嬉しそうに笑った。髪を掻き上げた時に揺れたピアスが、店の照明を反射して光った。 「やっぱりあの子勝手に言ってるだけなんだ、凌のオンナだって。じゃあいいじゃん、遊びに行こっ」 一人が馴れ馴れしく腕を掴んで、凌は即座に解いた。 「俺は忙しいんだよ」 「やだ、冷たいわね凌、もしかして勉強? な訳ないっか」 「それで注文は?」 「あ、えっとねー」 二人の注文を取って、凌はもう付き合わないつもりで奥へ入った。何故か判らないけれど苛ついている。簡単に触って欲しくなんかないのに。 ──昨日の冷たい手が、忘れられない。 ほとんど丸一日姫の顔を見ていない。哲明とも姫の話をしないようにしていたから、今日哲明と政士があの場所へ行ったかどうかは聞いていない。行きたければ行けばいいし、面倒だったらやめればいい。檻から出してやるなんて言ったのは自分で、二人は巻き込まれただけなのだから。必ず自由にしてやるな んて、いい加減なことを。 「レジお願いしまーす」 「あ、すいません」 カップルで来ている客に呼ばれて、凌はレジの前に飛んで行った。大学生ぐらいだろうか、流行の長髪を一本に結んだ細身の彼氏が、当然のように財布を出している。 「三千百九十三円になります」 無愛想に伝票を受け取りながら、凌はドアの側で彼氏を待っている女をちらりと見た。ブランドバックにロングブーツがさまになっていて、男なら自分の分まで金を払うのが当然という雰囲気だが、男の方が迫力に圧されてつい下手に出てしまいそうなタイプだ。特に美人という訳でもないが、惚れた弱みで、 何でもしてやりたくなってしまうのだろうか。 凌はチエリや他の女の子と何かを食べた時や、どこかに行った時に、相手の分まで払ってやったことはないし、もちろん払ってもらったこともない。借りを作るのは嫌だし、払ってやるような仲ではないと思っていたからだ。 でも、もしも姫と、だったら? 「六千八百七円のお返しです。ありがとうございました」 凌は店を出て行くカップルを見送って、その女の後ろ姿に姫の姿を重ねてみようとしたが、できなかった。 彼女の印象は、何かを訴えてくる炎の瞳。 姫の後ろ姿なんて見たこともないし、自分と二人で歩いているところも想像つかない。彼女は他の、どんな女とも違う。 ため息をつきかけた凌に、奥から声が掛かって、凌はできた料理を盆に乗せて彼女たちのテーブルに運んだ。小さな店だからウエイターは二人しかおらず、もう一人の仲間とはちょうど行動が互い違いになっているらしく、あのテーブルには行きたくないのだが、彼が行くしかしょうがないリズムになってしまっている。嫌でもそれが仕事だから、どうしようもない。 バイトを始めたきっかけは、バイクの免許を取るために教習所に通っていた時に、中学時代の先輩に誘われたことだった。先輩はもっと割りのいいバイトを見つけたため、自分の後釜が欲しかったのだという。凌も部活に出なくなって暇だったし特にやることもなかったし、バイク代も欲しかったので引き受け て、今に至っている。バイクを買ってからは金を貯める必要も差し迫ってはなかったが、他にやることもないので続けていた。 「お待たせしました」 テーブルに皿を置いて、凌がすぐ離れようとすると、女の一人が素早く彼のシャツを引っ張った。 「あ、ねー凌、そう言えばね、江藤が言ってたよ、凌のこと」 「テツが? 何を」 彼女が答えようとしたのを遮って、もう一人が言う。 「凌と江藤、ダンスの大会に出るんだって? 聞いちゃったよ。凌ってクールみたいだけど、かなりマジ?」 「んもう、あたしが喋ってんじゃんっ。江藤がね、凌ももうちょっとマジにやればいーのに、ってさ。笑ってたけど結構キテたよね」 「そうそう、凌は顔もキムタクだし、マジにやればイケてるって言ってたよ」 哲明がそういう言い方をしたとは思えないが、凌はふうんと答えてテーブルを離れた。女はまだ何か言いたそうだったが、ちょうど別の客が入ってきたので、無視して水を出しに行く。 テツの野郎、真剣なのか。シャレだよシャレ、なんて言って申込用紙をもらってきてたけど。 別にふざけて踊っているつもりはない。ただ真剣になれないだけで。 授業も、部活も、どんな意味があるのか判らない。学校も家庭もつきまとう女も、ただ無闇に縛られている気がする。俺のことなんて俺自身にも判らないのに。無意味で無駄。俺には関係ない。 関係あるのは。 ──冷たい指先。今日も、寒空の下に。 パシャ、と手に水が掛かって、凌は慌てて冷水の入ったアルミのポットを起こした。うっかりして、グラスから水を溢れさせてしまった。水たまりのできた盆を拭いて、水を注ぎ直す。 でも、姫の気持ちは、俺には判らない。 凌はふと目を上げて、少女たちのテーブルを見た。二人は笑いながら話している。自分を探してここまで来たと言っていた。高校生の女の子なら、とっくに家に帰っていなきゃいけない時間に。 あいつらも……俺の気持ちが判らないで、苛々したことがあるのか。今の俺のように、どう思ってるのかはっきり言って欲しくて、胸が灼けつくような思いをしたことが。 この痛みを。 二人がこっちを見そうになったので、凌は二人から目を逸らして作業をしているふりをする。 言ってやった方がいいのか? 俺の気持ちを、あいつらに話してやった方が。今すぐでなくても、いつか、はっきりと……? 「そりゃ、その方がいいだろうな」 三百六十ミリリットル入りの太い缶紅茶を放ってよこしながら、後は寝るだけのパジャマ姿の政士は、あっさりとそう言った。 「悪いな、父さんが全部飲んじゃったみたいでビールがなくて。でも凌、バイクだろ? コーヒーの方が良かったか? それの方が手前にあったんで持ってきたけど」 「ああ、これでいいよ、サンキュ」 時計はそろそろ十二時を回ろうとしている。 バイトが終わってから、家へは帰らずに直接政士の家へ来たので、凌はまだ学生服のままだ。 政士の部屋の二階にあるが、凌は子供の頃からよく庭の木を登って、窓から出入りしていた。昼間来る時はちゃんと玄関を経由していたが、夜中にこっそり来てもいいようにと、政士は窓に鍵を掛けないでくれているのだ。だがその逆に、政士が凌の部屋に行くことはあまりない。凌が自分の部屋にいることが少ないからだ。 絨毯の上に胡座をかいた凌は、政士のベッドに凭れて缶のプルトップを引き開ける。一階の台所に飲み物を取りに行ってきた政士は、勉強机の椅子を回して座ると、凌を見下ろした。 「なんで急にそんなこと思ったんだ? バイトで何かあったのか」 「そういう訳でもないけど」 いつ来ても、政士の六畳の部屋はきれいに片づいている。試験が近づいてくるといつにもまして整頓しちゃうんだよ、と中学生の頃から言っていたから、入試の直前にこれ以上できないくらい片づけたんだろう。 政士は昔から、凌の両親にも受けがいい。政士が一緒だと言えば、ほとんどのことが許してもらえるくらいには。 「何かあった訳じゃねーけど……女が店に来て、それで何となくそう、思って」 「何となく」 政士が何かを言いたそうにして黙ったので、凌は紅茶を飲む手を止めて上目遣いに彼を見た。 「何だよ」 「別に」 読んでいたらしい雑誌をラックに戻して、政士はわざとらしく笑う。 「今まで女の子のことなんてどうでもいいって感じだったのに、急に思いやるなんて、どうかしたのかなと思っただけだよ。でも別に何でもないなら、凌も大人になっただけってことだよな」 凌はフンと鼻を鳴らして紅茶を一気に飲んだ。 一つしか違わないくせに、政士は時々妙に兄貴面をする。それにいちいち腹を立てはしないが、言い返せないから癪に触るのだ。 年上の家庭教師とはどうやらうまく行かなかったらしいが、自分や哲明に愚痴をこぼすこともないし、やけ酒に付き合えと言うこともない。いつも冷静で、動揺しているこっちがまるでバカみたいだ。 「なんで急に大人になったのかなー?」 顔を覗き込まれて、凌は目を背けた。 政士のところへ来たのは、思いつきを聞いてほしかったからではない。いやそれもあったが、本当は聞きたかったのだ。今日、あのビルの裏へ行ったかどうかを。 姫のことを。 「姫のせいだろう」 缶に口を付けていたので、否定するタイミングを逃してしまった。 「そんなんじゃねーよって言いたそうだな」 先を越されてしまったので、ますます何も言えなくなる。凌は解いて床に置いておいたマフラーを手にすると、立ち上がって政士の首を絞める真似をしてやった。 「だったら何だって言うんだよ、自慢の喉を絞めるぞ」 「そ、それだけはやめてくれ、苦しい」 政士がもがくふりをする。凌は笑いながら手を離して座り直した。政士はパジャマの襟を直して、自分用のウーロン茶の缶を開けかける。 「今日も行ってみたよ、あそこに。江藤の家にも持って来れそうなのこぎりはなかったって言うから、どっちにしろ作業は進まなかったけど、姫が割りと元気そうにしてたのは見えた」 「見えた、って」 「見ただけなんだ。ちょうど俺たちが切ってる棒の前ぐらいに大きな車が停まってて、人がいたから」 「昨日の奴?」 凌が訊くと、政士はウーロン茶を一口飲んで首を振った。 「違う。チビで、ゴマシオ頭だった。あれは医者じゃないかな」 「医者?」 「ああ。やってることまで見えなかったけど、背中の方を特に調べてるみたいだったな。何か話してたけど内容までは聞こえなかった。しばらく待ってはみたけど行きそうにないから、今日は姫には会わずに帰ったよ」
by new-chao
| 2005-02-12 14:57
| 小説-Angel(3)
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